「杉本義宗」の版間の差分

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== 生涯 ==
時期は不明だが、老齢の父・義明に代わって[[家督]]を継いだ。
[[衣笠城]]からより[[鎌倉]]に近い場所に拠点を作ることを考え、[[三浦半島]]を出て[[鎌倉郡]][[杉本郷]]に居を構えて[[杉本城]]を築城した。同地は三浦氏の勢力下で六浦路・三浦路を抑える要衝であった。
 
[[衣笠城]]からより[[鎌倉]]に近い場所に拠点を作ることを考え、[[三浦半島]]を出て[[鎌倉郡]][[杉本郷]]に居を構えて[[杉本城]]を築城した。同地は三浦氏の勢力下で六浦路・三浦路を抑える要衝であった。
義宗は[[所領]]をめぐる争いから[[安房国]]に[[水軍]]を率いて出陣して[[長狭常伴]]と合戦に及び、待ち構えていた長狭勢からの矢傷が原因で杉本城内で亡くなった。
 
義宗は[[所領]]をめぐる争いから[[長寛]]元年([[1163年]])秋、[[安房国]]に[[水軍]]を率いて出陣して[[長狭常伴]]と合戦に及び、待ち構えていた長狭勢からの矢傷が原因で杉本城内で亡くなった。
義宗が没した年、彼の父・義明はすでに73歳であり、義宗は[[家督]]を継承していたのではないかとも考えられる。
 
== その後 ==
義宗の長子、[[和田義盛]]は[[三浦郡]][[和田郷]]に拠点を構え、杉本城には義宗の次男、[[和田義茂|義茂]]が入城した。
 
[[鎌倉幕府]]の成立後は、[[三浦党]]は嫡男の義宗系である[[和田氏]]と、家督を継承した二男の義澄系で分裂し、[[建保]]元([[1213年]])の[[和田合戦]]によって、和田氏は義澄の子・[[三浦義村]]に滅ぼされた。
 
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