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== 出自 ==
[[邢州]][[堯山県|堯山]](現在の[[河北省]][[邢台市]][[隆堯県]])出身。[[郭簡]]と[[章徳皇后|王氏]]のあいだの子。父は、晋王[[李克用]]の時代に[[刺史]]に任じられたが、郭威が3歳の頃に、戦乱に巻き込まれて戦死したために家門は没落し、養母の[[楚国夫人|韓氏]]に養育された。
 
成長した郭威は、一兵卒から立身して、[[劉知遠]]にその才能を見出され重臣となった。劉知遠が[[後漢 (五代)|後漢]]を建国するに際し大功を挙げ、[[枢密副使]]にまで昇進している。
 
[[岡田英弘]]は、柴栄は邢州堯山の人であるから[[漢人]]のようであり、養父の郭威は邢州(現在の河北省邢台市[[邢台県]])の人であり、柴栄は郭威の妻の兄の子から郭威の養子となったから同じく漢人のようであるが、異民族とされる[[唐|唐朝]]の興ったのは隆堯県であり、唐朝の先祖の[[李熙]]・[[李天錫]]の2代の墓があるのも隆堯県であり、李天錫の子が[[李虎]]([[鮮卑]][[宇文部]]の[[宇文泰]]が自分と同じ立場の[[武川鎮軍閥]]関係者から[[八柱国]]と十二大将軍を置いたが、十二大将軍の一人が隴西郡開国公李虎)であるように隆堯県は異民族の住地であり、同じ異民族の[[安禄山]]も邢州出身だったことから郭威・柴栄はもともとは[[突厥]][[沙陀族|沙陀部]]の血筋を引いていると考えてよいと述べている<ref>{{Cite book|和書|author=[[岡田英弘]]|authorlink=|date=2004-12-18|title=中国文明の歴史|series=[[講談社現代新書]]|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061497610|page=113}}</ref>。
 
== 即位 ==
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即位してからの郭威は、農村復興や[[節度使]]の統制、軍事力の強化など、内治に力を注いだという。
 
家族が皆殺しにされてしまったために、郭威とともに行動していて難を逃れた義理の甥である[[柴栄]](妻[[聖穆皇后|柴氏]]の兄の[[柴守礼]]の子)が後継者(世宗)となった。
 
== 宗室 ==
=== 后妃 ===
*[[聖穆皇后]]柴氏 - 最初の正妻。
*淑妃楊氏 - 2人目の正妻。
*貴妃張氏 - 3人目の正妻。後漢で処刑された。
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== 年号 ==
*[[広順]] ([[951年]] - [[954年]])
 
== 脚注 ==