「ガリア・セナトール貴族」の版間の差分
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'''ガリア元老院貴族'''あるいは'''ガリア・ローマ元老院貴族'''は、[[古代末期]]または[[中世前期]][[メロヴィング朝]]時代の[[ガリア]] (現在の[[フランス]]) で社会上層を占めた社会グループを指す。ガリア・ローマ元老院貴族の研究は、ドイツの歴史学者カール・フ
この文脈では、いわゆる元老院貴族のうち、4世紀から5世紀にかけて [[西ローマ帝国|(西) ローマ帝国]]の高位官職保有者を祖先に持つガリア・ローマ人がガリア・ローマ元老院貴族に数えられる。古代末には[[元老院 (ローマ)|ローマ元老院]]議員の地位は、威信と名望こそ高かったものの、政治的な影響力はほとんどなくなっていた。この時期にローマ元老院は規模を拡大したが、それに伴って元老院議員は3等級に分割された (viri clarissimi、viri spectabiles、[[:en:vir illustris|viri illustres]])。これら3等級の元老院議員のうち、ローマ元老院に議席を持つのは viri illustres のみであり、そのため元老院議員階級一般と (ローマ元老院に議席を持つ) 文字どおりのローマ元老院議員が区別される必要が生じた<ref>Vgl. allgemein Dirk Schlinkert: ''Ordo senatorius und nobilitas. Die Konstitution des Senatsadels in der Spätantike.'' Stuttgart 1996.</ref>。
いわゆる「[[ノウス・ホモ|新人]]」として元老院議員階級に上昇した者のなかには、[[コンスタンティヌス1世]]以来のダイナミックな社会変動によってその地位を
4世紀には、ガリア元老院エリートはローマ帝国の国政レベルでも比較的政治的影響力を有していたが、5世紀には国政に影響力をおよぼすことはほとんどできなくなっていた。この傾向に歯止めをかけようとする試みは、456年に皇帝アウィトゥスが廃位させられたことで失敗に終わった。西ローマ帝国が崩壊したことで、宮廷も、
ガリア・ローマ・エリートはいかなる意味でも一枚岩ではなかった。彼らのうちには政治的に非常に柔軟にふるまうものもおり、ゲルマン人の族長とコンタクトをとる者もあった。ゲルマン人は[[民族移動時代|移住]]の過程でガリアに侵入し、5世紀後半にはガリアで複数の独立国家を形成した ([[西ゴート王国]]、[[ブルグント王国]]、[[フランク王国]])<ref>Sebastian Scholz: ''Die Merowinger.'' Stuttgart 2015, S. 22.</ref>。5世紀後半には世俗のキャリアにかわって聖職者としてのキャリアがガリアの上流階級にとって魅力的になっていった。司教の職がガリア貴族の自己イメージの新たな基準点となったが、それに際して彼らは本来超俗であるこの地位を完全に政治的に活用し、また身分に見合うものにアップグレードしていった<ref>Zusammenfassend Sebastian Scholz: ''Die Merowinger.'' Stuttgart 2015, S. 24–26. Vgl. ausführlicher den Überblick bei Bernhard Jussen: ''Über ‚Bischofsherrschaften‘ und die Prozeduren politisch-sozialer Umordnung in Gallien zwischen Antike und Mittelalter''. In: ''[[Historische Zeitschrift]]'' 260, 1995, S. 673–718.</ref>。
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5世紀後半以降、つづくメロヴィング朝期に至ってもガリア貴族の代表的人物は多数が聖俗の主要ポストを保持しつづけた。この傾向はガリアの中部や南部で顕著であり、ガリア中部・南部では彼らの影響力は非常に強かった。また、そのうえ彼らは自分の財産と特権のみを基盤にしていたわけではなく (もっともその財産は莫大なものである場合もあった)、親族ネットワークにも基づいていた。ガリア・エリートの成員はながらく政治的文化的影響力を行使することができた。中世前期のガリアでの社会形成という観点から見たとき、ガリア元老院貴族は非常に重要である。「元老院階級はメロヴィング朝ガリアに知的文化・行政・教会のもっとも強い連続的な要素を与えた<ref>Zitat Reinhold Kaiser: ''Das römische Erbe und das Merowingerreich.'' 3. überarbeitete und erweiterte Auflage. München 2004, S. 70.</ref>。」
ガリア・ローマ人の司教で歴史家だった[[トゥールのグレゴリウス]]は、そうした閨閥に連なる元老院貴族の家系の出身であり (曽祖父に当たる{{仮リンク|ラングルのグレゴリウス|en|Gregory of Langre}}までさかのぼることができる)、自分のことを [[東ローマ帝国|(東) ローマ帝国]]の臣民とみなしつづけただけでなく、590年ごろの著作では傑出した社会的階級にあると認めた上流ガリア・ローマ人の特別な一群に対
5世紀から6世紀のガリア元老院貴族たちが高位の現地役職、とくに教会での役職によって自分たちの社会的地位を維持しようとしたことは特筆されるべきである。しかし、ガリア元老院貴族の地域社会における役割は過大評価されるべきではない。[[:de:Steffen Patzold|Steffen Patzold]] は近年、元老院貴族の家系が司教の職をなかば独占していたというかつての学説を見直そうとしている<ref>Vgl. etwa [[Martin Heinzelmann]]: ''Bischofsherrschaft in Gallien. Zur Kontinuität römischer Führungsschichten vom 4. bis 7. Jahrhundert.'' Zürich/München 1976; Bernhard Jussen: ''Über ‚Bischofsherrschaften‘ und die Prozeduren politisch-sozialer Umordnung in Gallien zwischen Antike und Mittelalter''. In: ''Historische Zeitschrift'' 260, 1995, S. 673–718.</ref>。Patzold によると、この学説に関する史料の基礎はむしろ不十分であり、曖昧すぎることも多いという<ref>Steffen Patzold: ''Bischöfe, soziale Herkunft und die Organisation lokaler Herrschaft um 500.'' In: [[Mischa Meier]], Steffen Patzold (Hrsg.): ''Chlodwigs Welt. Organisation von Herrschaft um 500.'' Stuttgart 2014, S. 523–543.</ref>。この説に関する議論は現在も進行中である<ref>Vgl. auch Sebastian Scholz: ''Die Merowinger.'' Stuttgart 2015, S. 26f.</ref>。
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