「後藤信康」の版間の差分

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*信康に関柴合戦での不始末を非難されたことに腹を立てた[[原田宗時]]に決闘を申し込まれた際に「このような事で死ぬくらいなら、御家のためにその命を使おうではないか」と諭した。これに感じ入った宗時は改心して、これ以降両者は刎頚の交わりを結んだという説話がある。
*桧原城主であった時、政宗に対してあまりに退屈なので城主の任を解いて戦場に赴かせてほしいと訴えたが、この嘆願を拒否されたため、悲観した信康は戦支度を整えたのち愛馬・五島の背に跨り、諸共崖下へ身を投げたという説話がある。
*郷土史家・三原良吉によれば、馬上蠣崎神社(仙台市青葉区片平)には、藩祖政宗公に献じた愛馬・五島が[[大坂の#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]に漏れた事に嘆き悲しみ居城の本丸より崖下に飛び降り死亡したという説話が、神社の由来とともに伝えられているという。
 
== 参考文献 ==