「藤原高子」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
50行目:
公卿の娘で五節舞姫に選ばれることは将来の后妃候補として入内する前提となっていたが、この時には既に実父の長良は病死している([[後見 (歴史学)|後見]]がいない)ため、同母兄である基経を養子としていた[[藤原良房]](長良の弟・清和天皇の外祖父)が高子も養女としていた可能性がある。反面、実際の入内は天皇が幼少であったこともあり五節舞から7年も後で、長良のもう一人の弟である[[藤原良相]]の娘である[[藤原多美子]]よりも遅れることになった<ref name=suzuki>鈴木琢郎「摂関制成立史における「応天門の変」」『日本古代の大臣制』(塙書房、2018年) ISBN 978-4-8273-1298-0 (原論文:2015年) P346-348.</ref>。
 
貞観10年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]([[869年]][[1月2日]])、貞明親王(後の[[陽成天皇]])を産む。貞観11年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]][[従四位|従四位下]]、貞観13年1月8日[[従三位]]に叙される。貞観18年([[876年]])の陽成天皇の即位にともない、[[元慶]]元年([[877年]])[[皇太夫人]]となり[[中宮職]]が付与され、元慶5年([[881年]])[[従一位]]、さらに元慶6年([[882年]])には皇太后の尊称を受けた。
 
しかし、時の権力者で同母兄である[[摂政]]藤原基経や、異母姉でかつ[[宇多天皇|源定省]](のちの宇多天皇)の養母だった尚侍[[藤原淑子]]と高子は折り合いが悪かった。[[在原文子]](清和の[[更衣 (後宮)|更衣]])の重用を含めた高子側の基経を軽視する諸行動が、基経をして後に外戚関係を放棄をしてまでも高子・陽成天皇母子を排除させるに至ったとの見方もある<ref>瀧波貞子「陽成天皇廃位の真相」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』([[思文閣|思文閣出版]]、2009年 ISBN 978-4-7842-1497-6)所収)</ref>。ただし、在原文子を更衣としてその間に皇子女を儲けたのは清和天皇自身である。高子が清和天皇との間に貞明親王(陽成天皇)・[[貞保親王]]・[[敦子内親王]]を儲けたにもかかわらず、清和は氏姓を問わず数多の女性を入内させ多くの皇子を儲けていたことから、基経も母方の出自が高くない娘[[藤原頼子|頼子]]を入内させ、さらに同じく出自の低い[[藤原佳珠子|佳珠子]]を入内させて自らの外孫の誕生を望んだために、高子の反発を招いたと見ることもできる。そこに藤原淑子の暗躍を見る説<ref>[[角田文衛]]の説</ref>もある。表建ての理由は、陽成天皇が乳母子源益を撲殺して帝徳を欠いたこと。<!-- なお陽成天皇の在位中、一人も正式な妃は入内していない。 -->