「ノート:霊友会」の版間の差分

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== 出典の追加について ==
歴史、のところにある要出典のところを3か所ほど追加したいのですが書き込みできないようです。
* [[1920年]] - 創立者の[[久保角太郎]]は[[西田無学]]の思想と行法を知り、それをきっかけとして本格的な法華経研究と在家による実践方法の模索に入る。<ref>(注釈『日本の新宗教』島田裕巳著P130</ref>P130)
* [[1924年]] - 若月チセらと第一次「霊友会(南千住霊友会)」結成するが、若月らに菩薩行としての趣旨が理解されず、その後袂を分かつ。
* [[1927年]] - 兄夫婦の小谷安吉・[[小谷喜美]]らとともに「赤坂霊友会」として活動を開始。<ref>(注釈『日本の新宗教』島田裕巳著P132</ref>P132)
・・・・・・・・・・
* [[1944年]] - 久保角太郎他界。その後、小谷喜美を中心に戦後大きく教勢を伸ばしていくが、多くの分派を生むに至る。主な分派として、[[立正佼成会]]、[[思親会]]、[[佛所護念会教団]]、[[妙智会教団]]、[[妙道会教団]]、[[大慧會教団]]、[[正義会教団]]、[[法師宗]]などの[[新宗教]]の団体が挙げられる。これらを総称して霊友会系教団と分類することが多い。<ref>(注釈『日本の新宗教』島田裕巳著P134</ref>P134)--[[利用者:Tokinokawa|Tokinokawa]]([[利用者‐会話:Tokinokawa|会話]]) 2020年4月2日 (木) 07:24 (UTC)
 
==編集提案==
 
3 分裂・分派発生  の最後に『日本の新宗教』島田裕巳著P133よりの追記をしたいと思います。
 
1935年には、理事だった岡野正道がぬけて、孝道教団をつくり、1936年には高橋覚太郎の霊照会が、1938年には井戸清行の思親会が独立する。
 
 
6著名な信者 の下に『日本の新宗教』島田裕巳著P130 からの概要文を追記したいと思います。
 
島田裕巳の評価(平成29年時点)概要
 
佛所護念会を作った西田無学の思想を元にして、久保角太郎と小谷喜美が創始者となって霊友会を作った。霊友会は法華信仰と先祖供養を統合したところに特色があるとされている。
法華三部経からの抜粋を中心に編纂された「青経巻」を作ったのは、西田無学であり、これはのちに霊友会の分派にも受け継がれてゆくことになる。
小谷喜美に宗教家としての素質を見出した久保角太郎は、小谷喜美に死者の霊の言葉を聞くシャーマン的な修行をさせて霊友会の創始者としての地位を確立させた。
霊友会は支部単位に信者の数を伸ばしてきたとされる。霊友会はのちに多くの分派に分かれてゆくが、その大きな要因としては組織構造と、小谷喜美の性格的な問題があったとしている。霊友会の組織においては、法華信仰が核となっていて各支部単位の独自性が強いため、創始者ではあるが小谷喜美も一人の人間であり、神道のように神ではなく支部長と変わりがないという解釈が組織においてなされていたとしている。
性格的な問題としては、小谷喜美は修行の経験があることにより、信者にきつく当たることがあったとされている。くわえて、法華経という会のベースとなっている経典に対する理解に欠けていたことも幾人かの支部長の離反につながっていったとしている。 
一般的に新宗教においては、新しい信者が加わる場合、すでに信仰を持っている人間から勧誘されてその組織に属することになることが多い。その場合新しい信者は勧誘した人の属する支部のメンバーとなる。
支部長が小谷の方針に従わず霊友会を脱会すれば、その支部に属していた信者の多くもそれについてゆくことになり、支部長の作る新しい教団のメンバーとなってゆくという分派形成が為されたとされている。--[[利用者:Tokinokawa|Tokinokawa]]([[利用者‐会話:Tokinokawa|会話]]) 2020年4月3日 (金) 06:27 (UTC)
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