「ハリー・サルツマン」の版間の差分

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1969年、主にサルツマンの意向が反映された、映画版007シリーズ第6作『女王陛下の007』公開。しかしこの作品の興行収入は第5作に比べて大幅に落ち込んでしまう。次作『007 ダイヤモンドは永遠に』は主にブロッコリの意向に沿った娯楽性の強い作品となり、この第7作が第6作の興行成績を上回ったことから、以後は共同製作を継続しつつもブロッコリが主導権を握る傾向が強まった。第8作『死ぬのは奴らだ』はシリーズの興収記録を更新、シリーズは再び上昇気流に乗ったが、この作品からボンド役に招かれたロジャー・ムーアの起用にサルツマンは当初消極的で、起用に賛成したブロッコリとの溝が深まったといわれる。一方サルツマンはシリーズの製作で得た収益を元手に、不動産業や食品工場経営など他の様々な事業を手がけるようになったが、彼に経営感覚が欠けていたこともあって思うように成果が上がらず、サルツマンの経済状況は悪化していく。基本的にはシリーズの製作に専念した堅実なブロッコリとはこの面でも対照的であり、007シリーズに携わるサルツマンの周囲でも彼の姿勢を疑問視する意見があったという。
 
1975年、サルツマンは彼にとって不本意な製作状況と、副業の不振という彼の個人的事情もあって、『[[007 黄金銃を持つ男]]』を最後にシリーズの製作から正式に身を引き、ファンに衝撃を与えた。サルツマンは製作からの離脱についてブロッコリに事前連絡しておらず、サルツマン所有分のダンジャック株についても、ブロッコリへの譲渡を拒否、結局UAに持株を売却しており、ここまでシリーズを共に支えてきた2人の亀裂を如実に示す出来事となった。またサルツマンの持株を手にしてダンジャック及びイーオン・プロの大株主となったUAがボンド俳優ムーアの降板を要求するなど製作UAの発言力がさら介入したことで強まり、サルツマンの離脱が結果的に、イーオン・プロのシリーズ次回作製作に支障をきたしたともいわれる。
 
007シリーズから離れた後もシリーズの出演者とは交流があったが、事業面では失敗、多額の借金を背負う。製作降板後の『[[007 私を愛したスパイ]]』撮影期間中、パリ時代に知り合って以来苦楽を共にしてきた妻・ジャッキーが癌で亡くなる。以後サルツマンは抜け殻のようになってしまい、自身も体調を崩してしまったといい(遺族の証言による)、この時期は公私共に失意の時となった。1981年、ブロッコリからの招待により『[[007 ユア・アイズ・オンリー]]』プレミア試写会にサルツマンは家族と共に出席する(同作品に出演したハイアム・トポルがサルツマンの招待を提案)。その席でブロッコリとサルツマンは抱擁を交わし、一同からは拍手が起きた。2人が対立したのはあくまで仕事面であり、互いの人柄に対し悪感情はなかった。和解後、「カビーはボンド映画で素晴らしい仕事をしている」とサルツマンはブロッコリを称えている。007シリーズの製作復帰も打診されたことがあったが、結局サルツマンは断っている。和解後のサルツマンは意欲を取り戻し、『ニジンスキー』製作後、映画劇場運営会社を立ち上げ、世界各国の映画に出資、映画界に貢献した。[[カンヌ映画祭]]グランプリ候補となった『ジプシーのとき』もその一つ。大好きだったという演劇にも関わった。