「鮭延秀綱」の版間の差分

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[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]に呼応して[[直江兼続]]率いる[[上杉氏|上杉]]軍が、最上氏の[[長谷堂城]]を包囲する([[慶長出羽合戦]])。秀綱は副将格として長谷堂城に派遣され、城主の[[志村光安]]を助け、[[楯岡光直]]や[[清水義親]]らと共にこれを救援した。秀綱は部隊を率いて上杉本陣に迫るなどの奮戦ぶりを見せ『[[奥羽永慶軍記|永慶軍記]]』には、直江兼続に「鮭延が武勇、[[武田信玄|信玄]]・[[上杉謙信|謙信]]にも覚えなし」と言わしめ、後日兼続から褒美が遣わされたとある。戦後に最上氏が出羽山形57万石に封じられると、秀綱には真室城11,500石が与えられた。
 
[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])、年少の[[最上義俊]]が最上家の家督を継いだことに反対し、秀綱は義光の四男・[[山野辺義忠]]を擁立したため、家臣団は分裂して対立した。この[[お家騒動]]([[最上騒動]])が理由で元和8年([[1622年]])、最上氏は[[近江国]][[大森藩|大森]]1万石に転封。事実上、[[改易]]された。秀綱も[[佐倉藩]]主・[[土井利勝]]預かりとなったが、後に最上騒動の不始末を許されてからは土井氏に仕えた。このとき、与えられた知行5千石を山形以来の家臣14名に全て分け与え、自身は家臣の下を転々として暮らしたともいわれている<ref>秀綱の死後に元家臣たちは改めて土井家臣として仕官したが、この際に5千石を配分してそれぞれの知行としたために生じた伝承ともされる。</ref>。この時点での利勝はまだ6万2500石の大名で5千石もの知行は過大な負担であるが、秀綱を客分として召し抱えることは将軍[[徳川秀忠|秀忠]]直接の仲介であり、この分を加増されていことがわかっている。この直前に秀忠より[[徳川忠長]]の[[附家老]]とする要請があったが、秀綱は固辞していたという
 
なお、この預かり中には江戸[[本郷 (文京区)|本郷]](後の本郷森川町近辺)に蟄居していた。既に妻と嫡男の秀義に先立だれており、身の回りの世話に雇った土地の娘との間に元和9年([[1623年]])子を儲けた。この庶子は森川弥五兵衛と名乗り、その家系は土井家臣となっている。秀義の遺児も引き取っていたが、こちらは籠宮姓を名乗らせ別家とし、鮭延家自体は断絶させた<ref>[http://samidare.jp/yoshiaki/note.php?p=log&lid=411209 [[最上義光歴史館]]『古河藩土井家における鮭延越前とその家来達について』早川和見(古河郷土史研究会会員/山形県地域史研究協議会会員)]</ref>
 
[[寛永]]10年([[1633年]])4月の土井家転封に伴って古河に移り、[[正保]]3年([[1646年]])、当地にて死去。遺徳を偲んだ家臣達によって[[鮭延寺 (古河市)|鮭延寺]]([[茨城県]][[古河市]])が建立され、弔われた。