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{{出典の明記|date=2017年7月14日 (金) 04:56 (UTC)}}
'''田中 一村'''(たなか いっそん、[[1908年]][[7月22日]] - [[1977年]][[9月11日]])は、[[日本画家]]である。中央画壇とは一線を画し、[[1958年]]([[昭和]]33年)、50歳で単身[[奄美大島]]に移住。奄美の自然を愛し、[[亜熱帯]][[植物]][[]]を鋭い観察と画力で力強くも繊細な[[花鳥画]]に描き、独特の世界を作り上げ<ref name="amamipark">{{Cite web|url=http://amamipark.com/isson/|title=田中一村記念美術館|accessdate=2020-4-6}}</ref>。本名は田中孝。
 
== 経歴 ==
*[[ファイル:田中一村の墓.jpg|サムネイル|栃木市満福寺にある田中一村の墓|493x493ピクセル]][[1908年]] - [[栃木県]][[下都賀郡]][[栃木町]](現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は[[彫刻家]]の田中彌吉(号は稲村)。若くして[[南画]]([[水墨画]])に才能を発揮し「[[神童]]」と呼ばれ<ref name="shindou">読売新聞栃木版 2017年8月19日 25面。</ref>、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。父濔吉より「米邨」の号を与えられる<ref name="amamipark"/>。大正また10代にして既に[[与謝蕪村|蕪村]]や[[青木木米|木米]]などを擬した南画を自在に描き得た。
 
*[[ファイル:田中一村の墓.jpg|サムネイル|栃木市満福寺にある田中一村の墓|493x493ピクセル]][[1908年]] - [[栃木県]][[下都賀郡]][[栃木町]](現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は[[彫刻家]]の田中彌吉(号は稲村)。若くして[[南画]]([[水墨画]])に才能を発揮し「[[神童]]」と呼ばれ<ref name="shindou">読売新聞栃木版 2017年8月19日 25面。</ref>、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代にして既に[[与謝蕪村|蕪村]]や[[青木木米|木米]]などを擬した南画を自在に描き得た。
* [[1926年]] - [[東京市]]港区の[[芝中学校・高等学校|芝中学校]]を卒業する。[[東京美術学校]](現・[[東京芸術大学]])日本画科に入学。同期に[[東山魁夷]]、[[加藤栄三]]、[[橋本明治]]、[[山田申吾]]らがいる。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で同年6月に中退。[[趙之謙]]や[[呉昌碩]]風の南画を描いて一家の生計を立てる。『[[大正]]15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。
* [[1931年]] - それまで描いていた[[南画]]と訣別。自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。