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{{混同|張俊 (武将)}}
'''張 浚'''(ちょう しゅん、[[1097年]] - [[1164年]])は、[[中国]][[南宋]]
== 略歴 ==
=== 金国との戦い === === 内政と軍政 ===
[[1135年]]に尚書右僕射・中書門下平章事・知枢密院事・都督諸路軍馬などの重職を兼任する。洞庭の賊を征服し、諸将の会議をおこして侵略された国土の恢復を期し、高宗には『中興備覧』41篇を献じた。[[1136年]]には[[韓世忠]]・[[劉光世]]・[[張俊 (武将)|張俊]]・[[楊存中]]・[[岳飛]]らの将軍を監督して、[[劉豫]]と金軍を討ち、[[濠州]]で[[劉邈]]の軍を破る。[[1137年]]に金紫光禄大夫を加えられたが、[[酈瓊]]の反乱の責任をとって辞職した。
[[1139年]]に資政殿学士に復帰して
[[1161年]]に金帝
== 学問 ==
張浚は学問を好み、[[朱熹]]とも親交があり、特に『[[易]]』・『[[春秋]]』・『[[論語]]』・『[[孟子 (書物)|孟子]]』に詳しかった。著書として次に挙げるものがある。紫
*『紹興奏議』10巻
*『隆興奏議』10巻
*『論語解』4巻
*『紫
*『春秋解』6巻
*『中庸解』1巻
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*『文集』10巻
== 参考文献 ==
*『[[宋史]]』巻361
*朱熹『張公行状』
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