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{{混同|張俊 (武将)}}
'''張 浚'''(ちょう しゅん、[[1097年]] - [[1164年]])は、[[中国]][[南宋]]時代における中国の政治家。[[字]]は'''徳遠'''。[[漢州]][[綿竹市|綿竹県]]の出身。[[]]の名臣であった[[張九齢]]の弟の張九皋の子孫である。父は張咸。子は[[張ショク|張栻]]の父でもある
 
== 略歴 ==
=== 金国との戦い ===
[[漢州]][[綿竹市|綿竹県]]の出身。4歳で孤児となるがすでに大人びて慎重、将来の大器をうかがわせた。[[太学]]へ入り[[進士]]となり、[[1126年]]に太常簿となる。その直後、[[汴京]]に[[金 (王朝)|金]]が侵入し、南方へ逃れた[[高宗 (宋)|高宗]]が即位した。高宗の下で累進して礼部侍郎となり、金が必ず来寇すると予測し、国防の必要を力説する。宰相らには杞憂として採用されなかったが、[[1128年]]に金の軍勢が国境を侵しそれに乗じて[[苗傅]]・[[劉正彦]]が反乱を起こすという事態になる。張浚は川陝諸路宣撫使に任命され、ついで知枢密院事となり反乱軍を鎮圧した。四川の防備の重要なことを訴え自らその任にあたることを請うたので、川陝宣撫処置使に任命された。3年間の在任中、[[劉子羽]]・[[趙開]]・[[呉玠]]を用いて大いに治績をあげ、[[1131年]]に[[呉珍]]を派遣して和尚原で金軍を壊滅させている。宰相と[[朱勝非]]などの弾劾にあい一時職を去ったが、すぐに金軍が[[劉麟]]とともに来寇したので、知枢密院として四川に着任せしめたところ、将兵の意気は大いにあがり、金の将軍[[兀朮]]は軍を引いた。のちに金の将である[[粘没喝]]は「中国で自分の敵となりうるのは張浚だけである」と言い、四川を取る望みを絶つよう本国に遺言したという。
 
=== 内政と軍政 ===
[[1135年]]に尚書右僕射・中書門下平章事・知枢密院事・都督諸路軍馬などの重職を兼任する。洞庭の賊を征服し、諸将の会議をおこして侵略された国土の恢復を期し、高宗には『中興備覧』41篇を献じた。[[1136年]]には[[韓世忠]]・[[劉光世]]・[[張俊 (武将)|張俊]]・[[楊存中]]・[[岳飛]]らの将軍を監督して、[[劉豫]]と金軍を討ち、[[濠州]]で[[劉邈]]の軍を破る。[[1137年]]に金紫光禄大夫を加えられたが、[[酈瓊]]の反乱の責任をとって辞職した。
 
[[1139年]]に資政殿学士に復帰して[[州]]知州となり、[[1142年]]に和国公に任命されたが、上疏して金への和平に傾く国策について痛論し、宰相[[秦檜]]の怒りに触れた。左遷され、提挙江州太平興国宮となる。[[1155年]]、秦檜が亡くなると観文殿学士・[[洪州]]通判に復帰したが、秦檜の時代に武備が衰えたことを論じて辞職させられた。
 
[[1161年]]に金帝[[海陵王|完顔]]が侵入すると、建康府通判・行宮留守となり、張子顔を派遣して、金軍を[[海州 (江蘇省)|海州]]に破った。[[1163年]]に枢密使・都督建康府を兼ね、[[李顕忠]]に[[霊璧県]]を、[[邵宏淵]]に[[泗県|虹県]]を攻めさせ軍を督促したが[[宿州]]で破れ、「特進」に位が下って江淮宣撫使となる。宰相[[湯思退]]の和平論を斥け、尚書右僕射・中書門下平章事・枢密使となり国政を動かした。江淮におもむき要害の地に築城し、武器を精鋭にし忠義の士を募って金との決戦に備えていたが、湯思退らにより「無用の戦争を起こして、国庫を浪費した」という誹謗を加えたために、官を辞した。その後も上疏して金への和議が誤っていることを説き、[[孝宗 (宋)|孝宗]]には学問に努め賢人に親しむよう訴えた。孝宗は張浚が亡くなるといたく哀悼し、太保の位を贈り、さらに太師をも加えた。[[]]は忠献。
 
== 学問 ==
張浚は学問を好み、[[朱熹]]とも親交があり、特に[[易]][[春秋]][[論語]][[孟子 (書物)|孟子]]に詳しかった。著書として次に挙げるものがある。紫居士と号する。
 
*『紹興奏議』10巻
*『隆興奏議』10巻
*『論語解』4巻
*『紫』10巻
*『春秋解』6巻
*『中庸解』1巻
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*『文集』10巻
 
== 参考文献 ==
*『[[宋史]]361
*朱熹『張公行状』