「建武の新政」の版間の差分

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後醍醐天皇は光厳天皇の即位と正慶の元号を廃し、光厳が署名した詔書や光厳が与えた官位の無効を宣言し、さらに[[関白]]の[[鷹司冬教]]を解任した。
 
帰京した後醍醐は富小路坂の里内裏に入り復位を宣言。親政を開始するが、京都では護良親王とともに六波羅攻撃を主導した足利高氏が諸国へ軍勢を催促し、上洛した武士を収めて京都支配を指揮していた。6月5日、高氏が[[鎮守府将軍]]に任命され、天皇の[[諱]]「尊治」から一字を与えられ「尊氏」と改めた。尊氏ら足利氏の勢力を警戒した護良親王は奈良の信貴山に拠り尊氏をけん制する動きに出たため、後醍醐天皇は妥協策として6月23日に護良親王を[[征夷大将軍]]に任命する。
 
6月15日には旧領回復令が発布され、続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令などが発布され土地所有権や訴訟の申請などに関しては天皇の裁断である綸旨を必要とすることとなった。7月には諸国平均安堵令が発せられ、[[朝敵]]を北条氏一族のみと定め、[[知行]]の安堵を諸国の[[国司]]に任せた。