「松浦清」の版間の差分

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また、安永8年([[1779年]])[[藩校]]・[[維新館]]を建設して人材の育成に務め、藩政改革の多くに成功を収めた。藩校の名称に関して幕府より「維新とはどういうことだ」と問責を受けたが、校名は変更していない。この校名の「[[維新]]」は『[[詩経]]』の一節に由来すると言われている。[[明治維新]]の「維新」と出典は同じであるが、清の正室の兄・[[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]は[[老中]]経験者でもあり、当時の社会情勢、平戸藩の状態からも、清に幕府転覆の意思があったとは考えにくい。
 
[[文化 (元号)|文化]]3年([[1806年]])、三男・[[松浦熈|熈]]に家督を譲って隠居し、以後は執筆活動に従事する。清は文学者としても秀でており、[[文政]]4年([[1821年]])11月の[[甲子]]の夜に執筆を開始したということで有名な、[[江戸時代]]を代表する随筆集『'''[[甲子夜話]]'''』(完本は[[平凡社東洋文庫]]、全20巻)や剣術書『'''剣談'''』([[野村克也]]の名言座右の銘とされる「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」はこれが出典で、清本人の発言である<ref>[https://www.compass-point.jp/kakugen/4473/ 勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし | 株式会社コンパス・ポイント(広告・フーガブックス・Chinoma)]</ref>。『常静子剣談』とも書かれる。)など、多くの重要な著作を残している。
 
特に『甲子夜話』は正編100巻、続編100巻、三編78巻に及ぶ大規模なものであり、内容は[[田沼意次]]時代から[[寛政の改革]]時代頃にかけての政治、諸大名や[[旗本]]、民衆の暮らしや風俗を知る上で貴重な史料となっている。なお、[[松平定信]]とは交友関係があったらしい。[[蘭学]]にも関心があったようで、静山が入手した[[地球儀]]が現在も[[松浦史料博物館]]に保管されている。一方で、史料博物館には[[戯作]]や[[黄表紙]]など卑俗な絵入り小説も多く含まれ、静山の多方面な関心が窺える。昭和初期の5度に渡る売立や、人を介して間接的な競売で散逸してしまったが、[[肉筆浮世絵]]を特に熱心に蒐集したらしく多くの名品をコレクションしていた。現在、[[大和文華館]]所蔵の[[国宝]]「婦女遊楽図屏風」は静山が新たに購入し、この屏風の別名「松浦屏風」もこの事に由来する。他にも[[勝川春章]]筆「婦女風俗十二ヶ月図」([[MOA美術館]]蔵、[[重要文化財]])や「遊女と禿図」([[東京国立博物館]])、[[鳥文斎栄之]]筆「朝顔美人図」([[千葉市美術館]])などの優品が静山の旧蔵品として知られている。