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[[1893年]](明治26年)、御木本幸吉は本格的に真珠養殖事業に進出するため、当時の神明村から島を借り受けて養殖場を開設し、御木本の[[家族]]や[[従業員]]が移住した<ref name="ik0706"/>。1899年(明治32年)には時の農商務大臣・曾禰荒助が養殖場を視察に訪れ、島名の表記を「多徳島」とすることを提案した{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1983|p=676}}。また[[1900年]](明治33年)には[[小松宮彰仁親王]]が来島し、その記念に「養真珠碑」{{#tag:ref|後に[[ミキモト真珠島]]([[鳥羽市]])へ移設され、現存する<ref name="ysh">{{cite web|url=https://www.tobakanko.jp/modules/know/index.php?p=601|title=養真珠碑|work=鳥羽市観光情報サイト|publisher=鳥羽市観光課|accessdate=2020-02-09}}</ref>。|group="注"}}を建立した<ref name="ysh"/>。そして[[1905年]](明治38年)、多量の[[アコヤガイ]]の中から5粒の真円真珠を発見し、真珠養殖技術を確立した<ref name="ik0706"/>。最盛期の[[1908年]](明治41年)には<ref name="kd"/>およそ200人が暮らし<ref name="ctv1910"/><ref name="kd"/>、御木本自身が初代局長を務めた多徳郵便局{{#tag:ref|[[1916年]](大正5年)開局<ref name="ik0709"/>。[[1931年]](昭和6年)に新多徳(大崎半島)へ移築し、[[1981年]](昭和56年)[[6月30日]]まで営業していた<ref name="ik0709"/>。|group="注"}}の[[金融]]部門の取引額は三重県で1番だった<ref name="ik0709"/>。また御木本は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の飛行家が近くに来るという情報を入手すると、わずか4日の突貫工事で島に[[滑走路]]を建設し、[[飛行機]]に着陸してもらって住民らに見せた、という逸話が残っている<ref name="ctv1910"/>。
 
御木本は[[1919年]](大正8年)に養殖拠点を「新多徳」と名付けた大崎半島([[浜島町迫子]])へ移す<ref name="ik0709">{{cite web|url=https://iseshima.keizai.biz/headline/267/|title=ミキモト真珠王の生家初公開―真円真珠発明100周年記念で|publisher=伊勢志摩経済新聞|date=2007-09-24|accessdate=2020-02-09}}</ref>が、[[1935年]](昭和10年)頃まで多徳島で養殖を続けていた<ref name="ctv1910"/>。[[1929年]](昭和4年)に志摩電気鉄道(現・[[近鉄志摩線]])が賢島まで開通すると、「真珠王」御木本に会おうと[[実業家]]、[[学者]]、各国の[[外交官]]、[[新聞記者]]らが続々と島を訪ねて来るようになった{{sfn|乾|2015|p=2}}。[[1933年]](昭和8年)には御木本が[[綜合真珠研究所]]{{#tag:ref|ミキモト真珠研究所の前身<ref name="mm">{{cite web|url=https://www.mikimoto.com/jp/research/index.html|title=研究開発について|publisher=[[ミキモト]]|accessdate=2020-02-09}}</ref>。今は多徳島にはなく、新多徳(大崎半島)にある<ref>{{cite web|url=https://www.sankeibiz.jp/smp/econome/news/180629/ecc1806291100001-s1.htm|title=【IT風土記】三重発 アコヤ貝の“声”を読み解き海の異変を察知「貝リンガル」|date=2018-06-29|work=SankeiBiz|publisher=[[産業経済新聞社]]|accessdate=2020-02-09}}</ref>。|group="注"}}を島に開設した<ref name="mm"/>。
 
=== 現代 ===