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{{Infobox 自転車競技選手
[[image:Jaan Kirsipuu.jpg|thumb|ヤーン・キルシプー]]▼
| 選手名 = ヤーン・キルシプー<br>Jaan Kirsipuu
'''ヤーン・キルシプー'''(Jaan Kirsipuu、[[1969年]][[7月17日]] - )、[[エストニア]]・[[タルトゥ]]出身の元自転車プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手。1992年プロデビュー。2006年に引退<!--<ref>ただし、翌2007年のエストニア選手権個人タイムトライアルに出場し優勝している</ref>-->したが翌年復帰。鋭い切れ味のゴールスプリントを武器に活躍したスプリンター。勝利を追求する貪欲な走りと魁偉な容貌から「[[ブルドッグ]]」の異名をとった。▼
| 画像 = Jaan Kirsipuu.jpg
| 画像説明 =
| 愛称 =
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1969|7|17}}
| 国籍 = {{EST}}
| 身長 =
| 体重 =
| 縁故選手 =
| 期別 =
| 分野 = [[ロードレース]]
| 役割 =
| 特徴 = [[スプリンター (自転車競技)|スプリンター]]
| アマ年代 = 1990-1991<br>1992<br>2007-2008<br>2009
| アマ所属チーム = ディジョンOC<br>ACブーローニュ・ビヤンクール<br>CFC・ルートメーター<br>ジェオフコ・ジャルタジ
| プロ年代 = 1992.8-1995<br>1996-1999<br>2000-2004<br>2005-2006<br>2009<br>2010-2012
| プロ所属チーム = シャザル<br>カジノ<br>AG2R・プレヴォワイアンス<br>クレディ・アグリコール<br>レトゥア<br>チャンピオンシステム
| 監督年代 =2008<br>2013-2014
| 監督所属チーム =リエトゥムバンカ・リガ<br>アスタナ
| ジロ・デ・イタリア最高総合成績 =
| ツール・ド・フランス最高総合成績 =
| ブエルタ・ア・エスパーニャ最高総合成績 =
| 各グランツール総合優勝回数 =
| 主要レース勝利 = クップ・ド・フランス(1999、2003)<br>[[File:MaillotEstonia.PNG|20px]][[エストニア]]選手権 ロードレース(1988、1998、1999、2002、2005、2008)<br>[[File:MaillotEstonia.PNG|20px]][[エストニア]]選手権 個人タイムトライアル(1998、2001-2007)<br>[[File:MaillotEstonia.PNG|20px]][[エストニア]]選手権 2人タイムトライアル(1987)、<br>[[File:MaillotEstonia.PNG|20px]][[エストニア]]選手権 マウンテンバイクマラソン(2009)<br>[[ツール・ド・フランス]] 通算区間4勝<br>[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]] 区間優勝(1998)
| メダルテンプレート =
| 更新日 =
}}
▲'''ヤーン・キルシプー'''(Jaan Kirsipuu、[[1969年]][[7月17日]] - )、[[エストニア]]・[[タルトゥ]]出身の元
▲== 所属チーム ==
== 経歴 ==
1993年に、前年研修生として加入したシャザル・ヴェッタ・MBK(現在の[[AG2R・ラ・モンディアル]]でプロデビュー。当初はステージレースの区間優勝を狙うスプリンターであったが、弱小チームのためアシストも貧弱で勝利数は伸び悩んだ。
こうした「勝てる」レースを優先してメジャーなレースの勝ち星が無かったことと、自転車競技のマイナーなエストニア出身ということも重なり、強さの割にメディアの注目を集めることはなかったが、1999年のツール・ド・フランスの第1ステージで遂に区間優勝を果たし、第2ステージでマイヨ・ジョーヌを獲得、一躍注目を集めることになる。第2ステージ以降の区間優勝争いでは強力なアシスト陣を擁する[[トム・ステールス]]や[[マリオ・チポリーニ]]の後塵を拝したものの、彼らが集団落車の巻き添えや走路妨害による降格処分でもたつく間にもこまめにボーナスタイムを稼ぎ続け、第2ステージから第7ステージまでマイヨ・ジョーヌを守りきる健闘を見せた<ref>この年カンティーナ・トッロチームのメカニックとしてレースを間近で見ていた永井孝樹は「キルシプーのラスト50mの伸びはチポリーニが止まって見える」と絶賛している。</ref>。この活躍で一躍トップスプリンターとして名を上げることになるが、山岳ステージ最難関のガリビエ峠入り口であっさりとリタイア。引退までにツール・ド・フランス出場13回、区間優勝は4回を数えるが、チポリーニ同様一度として完走することは無かった。
その後も毎年コンスタントに2ケタ勝利を挙げ続け、引退までに遂に130勝。チポリーニや[[ローラン・ジャラベール]]といった大スターの知名度には及ばないものの、数少ない「プロ100勝越え」を果たした選手となった。
2006年の[[パリ~ツール]]を最後に
2010年にアルメニア国籍の新規コンチネンタルチーム、CKT TMIT・チャンピオンシステムに移籍。チームが解散する2012年まで在籍した。
2013年、[[カザフスタン]]のUCIプロチーム、[[アスタナ・プロチーム|アスタナ]]の監督に就任。2シーズン監督を務めた。
==主な
===グランツール===
*1998年 ブエルタ・ア・エスパーニャ
*1999年 ツール・ド・フランス
*2001年 ツール・ド・フランス
*2002年 ツール・ド・フランス
*2004年 ツール・ド・フランス
===ステージレース===
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===ワンデーレース===
* [[ショレ=ペイ・ド・ロワール|グランプリ・ド・ショレ=ペイ・ド・ロワーヌ]] 1997 - 1999年優勝
*{{flagicon|EST}}エストニア選手権個人ロードレース 1988年、1998年、1999年、2002年、2005年、2008年優勝
*{{flagicon|EST}}エストニア選手権個人タイムトライアル 1999年、2001 - 2007年優勝
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