「蘇我蝦夷」の版間の差分

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[[蘇我馬子]]の子で、母は[[物部守屋]]の妹・[[太媛]]。
 
[[推古天皇]]末年から[[斉明天皇|皇極天皇]]の御代にかけて大臣として権勢をふるった。推古天皇の[[崩御]]後、[[皇位継承]]者の選定に当たり、(日本書紀では)そのような発言はなかったものの「推古天皇の遺勅」であるとして田村皇子を[[舒明天皇]]として即位させた。有力な皇位継承の候補者としては、田村皇子と[[山背大兄王]]<ref>大兄は皇太子の意味となれるが山背大兄王が皇太子となったという記述は『日本書紀』にはなく、単なる皇子とする者もいる</ref>がいたが、山背大兄王を推薦した叔父の[[境部摩理勢]]を殺害した。『日本書紀』はこれを蝦夷の専横の一つに数えるが、父・馬子の死後、蘇我氏に対する内外の風当たりが強くなる中で、[[皇族]]や諸[[豪族]]との融和を重視して、蘇我氏との血縁関係のない舒明天皇を即位させたという説もある。
 
舒明天皇の崩御後は皇極天皇を擁立したが、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせた。また、子である[[蘇我入鹿]]に紫冠([[冠位十二階]]最高位大徳の色であるが、代々大臣を務めた蘇我氏当主の冠とする説もある)を授けて大臣と擬し、その弟を[[物部大臣]]とし、屋敷を宮上の門(みかど)と呼ばせるなど、自らを大王に擬する行為があった。一方で子・入鹿は、山背大兄王を襲って上宮王家一家を自殺に追いこんだ。『日本書紀』は、蝦夷はこの入鹿の行為に激怒し、嘆いたと伝えている。