「コンスタンティア・フォン・コーゼル」の版間の差分

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1715年12月12日、コーゼル伯爵夫人はアウグスト強王から返却を求められていた結婚の約束状を携えて[[ベルリン]]に向かった。彼女はピルニッツでの蟄居処分を解かれていなかったので、この旅行は逃亡行為とみなされた。このような行動をとった彼女を、王は許さなかった。約束状はアンナ・コンスタンティアが寵愛を得ていた頃に王から贈られたものだったが、ただの口約束ならまだしも書面に残された契約書であることが、王にとっては身の破滅になりかねなかった。もし約束状が、それもよりによってライバル国のプロイセンに持ち込まれて公開されようものならば、アウグスト強王は全ヨーロッパ規模の醜聞に巻き込まれるからである。アウグストはやむなくプロイセン王に対し、ザクセンに保護されていたプロイセンの脱走兵とコーゼル伯爵夫人の身柄の交換を提案した。
 
プロイセンの脱走兵は故国に送り返されれば死刑となる習慣だったため、アウグストは最初この交換をためらっていたが、迫りくるスキャンダルを避けるためには選択の余地がなかった。アウグストは帰国させる脱走兵を処刑しないという確約をプロイセン王から取り付けたうえで、彼らを送還した。コーゼル伯爵夫人は1716年11月21日、[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]、{{仮リンク|ノッセン|de|Nossen}}経由でドレスデンに送り返された。彼女は王により逮捕・拘禁され、1716年12月24日ドレスデンの東郊の堅牢な要塞{{仮リンク|シュトルペン城|de|Burg Stolpen}}に身柄を移送された。以後49年間の余生を、彼女はこの古城で過ごすことになる。
 
アウグスト強王はコーゼル伯爵夫人に与えてきた財産を没収することはなかった。それどころか彼女の所領から上がる収益すら彼女自身の収入として認めていた。例えば、{{仮リンク|ラーデボイル|de|Radebeul}}に所有する屋敷{{仮リンク|シュピッツハウス|de|Spitzhaus}}(「尖塔の館」)の敷地内にあったワイン醸造所の収益などである。伯爵夫人の総資産は当時の文書によれば50万ターラーもの巨額に上っていた。さらに伯爵夫人は宮廷の許可を得て。シュトルペン城の武器庫区域を改装し、1743年までその区域に居住していた。