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{{Otheruseslist|[[公家]]|[[俳優|女優]]・[[タレント]]|清華}}
{{出典の明記|date=2017年2月12日 (日) 04:11 (UTC)}}
'''清華家'''(せいがけ)とは、[[公家]]の[[家格]]のひとつ。最上位の[[摂家]]に次ぎ、[[大臣家]]の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて[[太政大臣]]になることのできる主に7家([[三条家|三条]]・[[西園寺家|西園寺]]・[[徳大寺家|徳大寺]]・[[久我家|久我]]・[[花山院家|花山院]]・[[大炊御門家|大炊御門]]・[[今出川家|今出川]])を指す(7家よりも多くの家が存在していた時代から徐々に数を減らしたり、江戸期には[[広幡家|広幡]]・[[醍醐家|醍醐]]の両家を加えて数を増やしたりなど、時代によって家格を有した家の数が異なる)。
 
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== 概要 ==
'''英雄家'''、'''華族'''ともいう。摂家と清華家の子弟は、[[公達]](きんだち)と呼ばれた。[[近衛大将]]・[[大臣]]を兼任し、最高は[[太政大臣]]まで昇進できる。[[江戸時代]]においては、[[従五位|従五位下]][[侍従]]を振り出しに<ref group="注釈">摂家は[[正五位|正五位下]][[近衛府|近衛権少将]]。</ref>、[[近衛府|近衛権中将]]、[[中納言|権中納言]]<ref group="注釈">摂家と同様、近衛中将から[[参議]]を経ずして中納言に任ぜられる慣例となっている。</ref>、[[大納言|権大納言]]を経て、右近衛大将<ref group="注釈">[[後白河天皇|後白河]][[院政]]末期から[[後鳥羽天皇|後鳥羽]]院政期にかけ、摂関家の嫡子が左大将、清華家の大納言筆頭者が右大将に任官することが例となったとされる。</ref>を兼ね大臣に至る。ただし、江戸時代の太政大臣は[[摂政]]・[[関白]]経験者([[摂家]])に限られ、清華家の[[極位極官|極官]]は事実上[[左大臣]]であった<ref group="注釈">もっとも、その左大臣の[[任官]]も江戸期には10例と少なく、在任期間も短い。</ref>{{efn|江戸時代には清華家の極官について、摂関家側は左大臣、清華家側は太政大臣と認識していて、認識の対立があった可能性も指摘されている<ref>長坂良宏『近世の摂家と朝幕関係』 吉川弘文館. 2018年. pp. 76-77・80・107-108.</ref>。}}。
 
'''英雄家'''、'''華族'''ともいう。摂家と清華家の子弟は、[[公達]](きんだち)と呼ばれた。[[1884年]](明治17年)の[[華族令]]によって、清華の家格の家は一律に[[侯爵]]に叙されることになったが、三条家のみ[[三条実美]]の功績により[[公爵]]とされた。その後、西園寺家は[[西園寺公望]]の、徳大寺家は[[徳大寺実則]]の功績により公爵となった。
 
大臣・大将・皇后などの地位は、{{要出典|摂関政治期には当然摂関とその近親が独占するものであった|date=2018年1月31日}}。一条朝以降に限れば、藤原氏以外で大臣・大将となった例は、初期に[[宇多源氏]]の左大臣[[源雅信]]・[[源重信|重信]]があり、末期には後の清華家[[久我家]]に連なる村上源氏の右大臣[[源師房]]がある程度である。摂関経験者(及び[[藤原師輔]])の子弟・養子以外の藤原氏に広げれば、左大将[[藤原済時]]の例があり、娘の[[藤原せい子|藤原娍子]]は三条天皇の皇后に立てられた。