「アントン・ドレクスラー」の版間の差分

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== 経歴 ==
=== 政治活動の開始 ===
鉄道労働者の息子として[[ミュンヘン]]に生まれる。国民学校卒業後、1901年に[[ベルリン]]に上るが、失業して帰郷、1902年から機械工として働き始める{{sfn|Kershaw|2008|p=82}}。この頃には既に[[反ユダヤ主義]][[反マルクス主義]]的な思想を身に付けていたという。[[第一次世界大戦]]中に{{仮リンク|ドイツ祖国党|de|Deutsche Vaterlandspartei}}に参加{{sfn|Hamilton|1984|p=219}}、1918年3月には職場だった[[バイエルン王国]]王立鉄道中央工場の同僚と共に、「良き和平のための自由労働者委員会」を組織した{{sfn|Kershaw|2008|p=82}}。また、[[カール・ハラー]]と共に保守系右派民族主義団体「{{仮リンク|政治的労働者のサークル|de|Politischer Arbeiter-Zirkel}}」を設立する{{sfn|Kershaw|2008|p=82}}。ドレクスラーの思想的指導者は、「全ドイツ人同盟」の指導者で[[MAN (企業)|ニュルンベルク・アウクスブルク機械工場]]経営者・バイエルン産業家連盟の代表役員だった[[{{仮リンク|パウル・ターフェル]]|de|Paul Tafel (Ingenieur)}}だった。
 
=== ドイツ労働者党 ===
敗戦後の1919年1月5日、ターフェルの慫慂(しょうよう)により[[ディートリヒ・エッカート]]、[[ゴットフリート・フェーダー]]、[[カール・ハラー]]と共に[[ドイツ労働者党]](DAP)を設立{{sfn|Kershaw|2008|p=82}}。同月に「国際[[プロレタリアート|プロレタリア]]の挫折と兄弟思想の失敗」と題する論文を発表。続けて「我が政治的目覚め」と題するパンフレットを発表したが、このパンフレットは当時復員してミュンヘンにいた[[アドルフ・ヒトラー]]に影響を与えたという。
 
1919年9月にミュンヘンで集会を開くが、その際に演説した{{仮リンク|アダルベルト・バウマン|de|Adalbert }}教授を論破したヒトラーを見て興味を抱いた{{sfn|Kershaw|2008|p=75}}。ドレクスラーはヒトラーに党のパンフレットを渡し、入党を促した。ヒトラーはドレクスラーの求めに応じて同月12日に入党した{{sfn|Stackelberg|2007|p=9}}{{sfn|Mitcham|1996|p=67}}。1920年2月24日、ドレクスラーはヒトラーを[[ホフブロイハウス]]で開催する党大会に参加させ、ヒトラー主導の下で[[25カ条綱領]]が発表され、党名を[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP)と改名した{{sfn|Kershaw|2008|p=87}}。この動きは、ハラーが党議長を追放され、ドレクスラーが党議長に就任した後に行われた<ref>Shirer, ''The Rise and Fall of the Third Reich'', p. 36</ref>。
 
=== ナチ党 ===
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3日後、ヒトラーは党への復帰の条件として自分に独裁権を与えるように書面で要求、党幹部がこの要求を認めたため、ヒトラーは復党した{{sfn|Kershaw|2008|p=103}}。7月25日にミュンヘン警察にヒトラーを危険人物であると密告したが、取り合ってもらえなかった。7月29日、554票中553票を得てヒトラーは新党首に選出され、ドレクスラーは名誉党首に祭り上げられ、党での実権を失った<ref>Shirer, ''The Rise and Fall of the Third Reich'', p. 41</ref>。
 
1923年11月の[[ミュンヘン一揆]]の際、自宅にいたドレクスラーは呼び出されたが、ヒトラーの計画を聞くや恐れて参加しなかったが、一揆の失敗後に逮捕された。この事件によりナチ党が一時解散を強いられたとき、ドレクスラーは党を離れて「民族ブロック」に参加し、1924年から1928年にかけてに[[バイエルン州]]議会議員を務めた。この間の1925年には民族社会主義人民同盟を設立している。同年ナチ党が再建されたがドレクスラーは加わらず、復党したのは[[ヒトラー内閣]]成立後の1933年になってからであった。

1934年には党創設者としてヒトラーから[[血の勲章|1923年11月9日記念メダル]]を授与されたが、以後も政治権力は与えられず、彼の存在は1937年まで党の宣伝のために利用された。ドレクスラー自身は、この勲章授与に感激し、以後熱烈なヒトラー支持者となった。その後はミュンヘンに隠棲し、[[第二次世界大戦]]中の1942年に同地で死去した{{sfn|Hamilton|1984|p=220}}。
 
== ヒトラーによる評価 ==