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== 江戸時代 ==
=== 細川氏 ===
秀吉の死後、[[1600年]]([[慶長]]5年)の[[関ヶ原の戦い]]で西軍に就いた毛利勝信は改易となり、豊前国は[[細川忠興]]に与えられた(現在の北九州市のうち、門司・小倉は細川氏の[[小倉藩]]、若松・戸畑・八幡は[[黒田長政]]の[[福岡藩]]に属した)<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 178-80)]]。</ref>。忠興は、小倉城を改修して居城とし、門司城には従兄弟の長岡(沼田)延元を置いた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 116)]]、[[#小野|小野 (2019: 42)]]。</ref>。
 
[[ファイル:巌流島 - panoramio.jpg|thumb|right|200px|現在の舟島([[巌流島]])。大半は近代に埋め立てられたもので、宮本武蔵の決闘当時は約5分の1の1万7000平方メートルの舟形の無人島であった<ref>[[#小野|小野 (2019: 53-54)]]。</ref>。]]
[[1612年]](慶長17年)、剣術家[[宮本武蔵]]が、関門海峡の小島である舟島([[巌流島]])で、[[佐々木小次郎|岩流]]という兵術の達人と決闘したとされる。門司城主沼田延元の子孫がまとめた『沼田家記』によれば、宮本武蔵は、岩流(小次郎)の弟子に追われ、門司城でかくまわれた後、豊後国[[日出城|日出]]にいた養父[[新免無二]]のもとに送り届けられたという<ref>[[#小野|小野 (2019: 52-54)]]。</ref>。
 
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大里は、小倉と並んで、九州から本州に関門海峡を渡る重要な宿駅・港町であり、御茶屋や各藩の[[本陣]]が設けられていた。在番所が置かれ、渡航手形の発行や通行人改めを行っていた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 144)]]。</ref>。[[長崎街道]]の起点は当初は小倉の[[常盤橋 (紫川)|常盤橋]]であったが、[[1799年]](寛政11年)に[[長崎奉行]]が大里に船舶取締りの番所を設けてから大里が起点となり、小倉・大里間を門司往還と呼んだ<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 189)]]。</ref>。門司往還は、[[参勤交代]]の行列や公用人の通行・宿泊が多く、藩は百人夫という組織を設け、[[助郷]]役に当たらせた<ref>[[#北九州市史・近世|北九州市史編さん委員会 (1990: 278)]]。</ref>。[[1802年]]([[享和]]2年)にこの地を訪れた菱屋平七は、『筑紫紀行』の中で、「豊前門司浦には人家百五六十軒ばかりあるが見ゆ。{{Interp|中略}}大裡{{Interp|大里}}は{{Interp|中略}}人家三百軒ばかりあり。諸侯方の渡海し給ふ舟場なり。されば本陣などもありといへり。」と記している<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 181)]]、[[#門司市史S8|門司市編 (1933: 178)]]。</ref>。[[1826年]]([[文政]]9年)に大里を訪れた[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]は、『江戸参府紀行』で「大里は小さな町である。下関に渡るには最短距離で楽な渡海地である。」と書いている<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 196-97)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 295)]]。</ref>。大里には[[1677年]]([[延宝]]5年)に開発された[[銅山]]もあった<ref>[[#門司市史S8|門司市編 (1933: 140)]]、[[#北九州市史・近世|北九州市史編さん委員会 (1990: 633)]]。</ref>。
 
また、近世中期以降に北海道・大坂間で[[北前船]]航路が開設されると、寄港地である下関が繁栄し、船の修理を行っていた門司の田野浦も発展した<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 144)]]。</ref>。田野浦には、1750年頃の[[宝暦]]年間に[[遊廓|遊里]]ができたといわれる<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 349)]]、[[#門司市史S8|門司市編 (1933: 146-47)]]、[[#北九州市史・近世|北九州市史編さん委員会 (1990: 633-34)]]。</ref>。[[1835年]]([[天保]]6年)には埋立地に新港が築かれた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 144)]]、[[#門司市史S8|門司市編 (1933: 157-59)]]。</ref>。もっとも、下関と比べ、田野浦は風待ち、汐待ちの補助的な役割にすぎなかった<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 153-54)]]。</ref>。
 
[[ファイル:Seikyo statue hesaki 20170901.jpg|thumb|right|180px|周防灘側の[[部埼灯台]]近くにある僧清虚像。清虚は、[[1850年]]([[嘉永]]3年)に亡くなるまでの13年間、難破の多い部崎の浜で航海の目印とするため、[[托鉢]]によって得た薪で一晩中火焚を続けたという<ref>[[#小野|小野 (2019: 215-18)]]、[[#史跡同好会|北九州史跡同好会 (1986: 23)]]。</ref>。]]
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[[ファイル:Panoramic view of Moji Village around 1888.jpg|thumb|center|650px|[[1888年]](明治21年)頃の門司村。塩田が広がる寒村であった。]]
{| border="0" align="right" cellpadding="7" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;"
|<div style="position: relative">[[ファイル:Map of Moji-ku showing forests and landfills.png|200px|center|門司区の地図(町村制施行時(明治22年)の村名と明治元年当時の町村名]]
<div style="position:absolute;font-size:90%;right:3%;top:60%">''[[周防灘]]''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:12%;top:20%">''[[関門海峡]]''</div>
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<div style="position:absolute;font-size:70%;left:62%;top:31%">大積</div>
<div style="position:absolute;font-size:70%;left:70%;top:20%">白野江</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;right:10%;top:70%">'''[[松ヶ枝村 (福岡県)|松ヶ枝村]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:70%;left:50%;top:78%">恒見</div>
<div style="position:absolute;font-size:70%;left:58%;top:48%">平山</div>
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[[1871年]](明治4年)7月、[[廃藩置県]]が行われ、10月14日、日田県企救郡は、豊津県(旧香春藩)、千束県(旧小倉新田藩)、[[中津県]]と統合されて[[小倉県]]となった<ref>[[#小野|小野 (2019: 212)]]。</ref>。[[1876年]](明治9年)4月、小倉県は[[福岡県]]に併合され、同じ年に[[三潴県]]のうち筑後一円も福岡県に入り、豊前の[[下毛郡]]・[[宇佐郡]]が福岡県から[[大分県]]に割譲されたことで、現在の福岡県域が確定した<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 266)]]。</ref>。[[1878年]](明治11年)の[[郡区町村編制法]]により、福岡県は福岡区と31の郡に編成された<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 271)]]。</ref>。[[1884年]](明治17年)頃の門司の産業は、清酒場1軒、醤油場1軒、製塩場6軒であった<ref>[[#産業史|北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 22)]]。</ref>。
 
企救郡では、[[1887年]](明治20年)、従来の門司村に楠原村が合併されるなどの町村合併があった<ref>[[#北九州市史・近現代|北九州市史編さん委員会 (1987: 146-47)]]。</ref>。[[1889年]](明治22年)、[[市制]]・[[町村制]]施行に際し、門司村、田野浦村、小森江村が合併し、'''文字ヶ関村'''となった。また、大里地区には'''{{Ruby|柳ヶ浦村|やなぎがうらむら}}'''、周防灘側には'''{{Ruby|[[東郷村 (福岡県)|東郷村]]|とうごうむら}}'''、'''{{Ruby|[[松ヶ枝村 (福岡県)|松ヶ江村]]|まつがえむら}}'''が成立した<ref>[[#北九州市史・近現代|北九州市史編さん委員会 (1987: 245)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 110)]]。</ref>。
{| class="wikitable"
|+ 各村の人口と範囲<ref>[[#田郷・それから|田郷 (1988: 54-55)]]。</ref>
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同じ頃、石炭産出地である[[筑豊]]では、[[1889年]](明治22年)に[[筑豊興業鉄道]]が設立されて1891年(明治24年)に[[若松駅|若松]]・[[直方駅|直方]]間で開通、1893年(明治26年)に[[折尾駅|折尾]]経由で門司港への石炭輸送が可能となった。同社(筑豊鉄道と改称)は、[[1897年]](明治30年)、九州鉄道と合併した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 178-79)]]。</ref>。また、豊前地方で1893年(明治26年)に設立された[[豊州鉄道]]は、[[田川伊田駅|伊田]]・[[行橋駅|行橋]]間、伊田・[[田川後藤寺駅|後藤寺]]間を開通させ、[[1901年]](明治34年)に九州鉄道と合併した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 179)]]。</ref>。なお、九州鉄道は[[1907年]](明治40年)に[[鉄道国有法]]により国有化され、門司に九州帝国鉄道管理局が置かれた<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 180)]]。</ref>。
 
従来、筑豊の石炭輸送は、[[遠賀川]]の舟運([[平田舟]])に頼っていたが、鉄道により九州各地に送るとともに、門司・若松の輸出港に直送できるようになった<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 201-03)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 138)]]。</ref>。このうち、若松港は水深の浅い[[洞海湾]]に面し、大型船が寄港できなかったのに対し、門司港は、水深が比較的深く、本州との接点にあり、国内外の物流に適しているという優位があった<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 197-98)]]、[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 155)]]。</ref><ref group="注釈">ただし、門司港内岸壁前面の水深は1.8 - 2.2メートルしかなく、300トンの小船を係留し得る程度であったため、沖荷役に依存していた。[[1919年]](大正8年)から[[1931年]](昭和6年)にかけての修築工事により、水深10メートルの係船岸壁が築造され、1万トン級汽船7隻が同時に係留できるようになった。[[#産業史|北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 91)]]。</ref>。門司の開港当初の輸出品は少量の石炭と塩くらいであったが、鉄道開通により筑豊の石炭の輸出港として大きく発展した。1890年(明治23年)の輸出額は34万円余りであったが、1901年(明治34年)の輸出入額は1885万円余りにまで成長した<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 18)]]。</ref>。また、当時は船の燃料に石炭が使用されていたことから、汽船への焚料炭(バンカー)の供給基地でもあった<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 156)]]。</ref>。
 
なお、当時、鉄道は下関とつながっておらず、1889年(明治22年)に門司の石田平吉が渡船業を始め、[[1896年]](明治29年)に下関側で[[関門汽船]]が設立され、業者が乱立した。[[1901年]](明治34年)に[[山陽鉄道]]が馬関(現[[下関駅]])まで開通すると<ref group="注釈">山陽鉄道が[[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]・下関間で開通したことにより、神戸からは官設鉄道で[[東京駅|東京]]まで行けるようになった。[[#堀|堀 (2017: 101)]]。</ref>、[[山陽汽船商社]]が関門鉄道連絡船を運行した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 177)]]、[[#佐々木|佐々木 (2013: 106-07)]]、[[#門司市史S38|門司市編 (1963: 248-50)]]。</ref>。[[1911年]](明治44年)には、日本最初の貨車航送として、[[小森江駅|小森江]]の笠松町と下関の[[竹崎町|竹崎]]を結ぶ[[関森航路]]が開かれた<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 167)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 178)]]。</ref>。また、1892年(明治25年)の[[大阪商船]]による[[尾道]]・門司航路を皮切りに、数多くの国内・海外の定期航路が就航した<ref>[[#門司市史S38|門司市編 (1963: 250-55)]]。</ref>。
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さらに、[[1899年]](明治32年)には、人口2万9290人となり、'''[[門司市]]'''となった。一方、柳ヶ浦村は、[[1908年]](明治41年)に'''[[大里町 (福岡県)|大里町]]'''となった<ref name="門司の歴史・明治" />。
 
[[日清戦争]](1894-95年)を機に、下関・門司の軍事的意義が高まり、各所に砲台や堡塁が築かれた<ref>[[#北九州市史・近現代|北九州市史編さん委員会 (1987: 345-46)]]、[[#堀|堀 (2017: 70-71)]]。</ref>。[[1897年]](明治30年)には、老松町に[[陸軍兵器廠]]が置かれ、[[1899年]](明治32年)の要塞地帯法で関門一帯は[[下関要塞]]地帯となり、立入りや撮影が規制されるようになった。ただ、兵器廠は、[[1918年]](大正7年)に小倉に移転した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 122)]]、[[#北九州市史・近現代|北九州市史編さん委員会 (1987: 347, 349-50, 380-81)]]。</ref>。門司港と下関港は、[[1907年]](明治40年)に関門海峡として第一種重要港湾に指定され、国による港湾整備がされることとなった<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 164)]]。</ref><ref group="注釈">第一種重要港湾は、外国貿易に必要な施設、港湾改良、港湾施設用地の造成工事を内務省が施工し、事業費の一部を地方に負担させるものであり、[[横浜港|横浜]]・[[神戸港|神戸]]・関門・[[敦賀港|敦賀]]の4港が選定された。[[#産業史|北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 67)]]。</ref>。
 
== 大正時代 ==
=== 貿易・金融の繁栄 ===
[[ファイル:Monument of Bargain Sale of Bananas, Mojiko Station.jpg|thumb|right|200px|「[[バナナの叩き売り]]発祥の地」碑<ref group="注釈">この碑と説明板は、老舗旅館・群芳閣の玄関脇に建っていたが、群芳閣の解体により取り外され、2017年(平成29年)1月、門司港駅前に移設された。[[#堀|堀 (2017: 140, 144)]]。</ref>。門司港への[[バナナ]]輸入開始は1904年(明治37年)ないし1905年(明治38年)頃と言われる。輸入時には青色でなければならないが、輸送が遅れ黄色味を帯びたものや傷がついたものを駅前で口上を付けて安売りしたのが始まりとされる<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 95)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 394-95)]]、[[#米津|米津監修 (1992: 211)]]、[[#堀|堀 (2017: 140-41)]]。</ref>。]]
若松港の築港工事が行われ、特別輸出入港に指定されると、石炭輸出は徐々に門司港から若松港にシフトし、門司港はそれに代わってセメント会社、製糖会社、紡績会社などの製品の輸出やその原料の輸入を担うようになっていった<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 157)]]。</ref>。[[1914年]](大正3年)には、門司港に入港する汽船トン数が[[神戸港]]や[[横浜港]]をしのいで全国1位となった。米、バナナ、肥料、材木、綿花、砂糖、麦粉、鉱油の西日本第一の取引地と称された<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 111)]]、[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 18-19)]]。</ref>。この頃には、門司の一等市街地の地価は東京[[日比谷公園]]の地価と大差ないとされ、土地の狭い門司港地区では建物がどんどん山手に上っていった<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 47, 111)]]。</ref>。
 
[[ファイル:Former Osaka Shosen Moji Branch Office 2008.jpg|thumb|left|現門司港駅近くに残る[[北九州市旧大阪商船|旧大阪商船ビル]](1917年(大正6年)築)。当初は右側面は水際に接して建てられていたが、その後道路部分が埋め立てられた<ref>[[#岡本|岡本ほか (2008: 24)]]。</ref>。]]
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[[ファイル:Sangiro.JPG|thumb|right|200px|現在残る料亭三宜楼。]]
大正期から昭和初年にかけて、門司港地区の桟橋通り周辺には、多くの銀行や商社が集まり、道路には[[ガス灯]]がともり、「一丁[[ロンドン|倫敦]]」と呼ばれた<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 56-57)]]、[[#堀|堀 (2017: 24)]]、[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 19)]]。</ref>。桟橋通りは、山側から門司港駅前、その先の埠頭まで通る道であり、これと交差する東西道路([[国道3号]])とともに街並みの軸となった<ref>[[#岡本|岡本ほか (2008: 24-29)]]。</ref>。現門司港駅のほかにも、[[北九州市旧門司税関|旧門司税関]]([[1912年]])、[[北九州市旧大阪商船|旧大阪商船]](1917年)、日本郵船ビル(1927年)など、この時期に建てられた建物のいくつかが[[門司港レトロ]]地区に残っている<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 126-31)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 35-40)]]。</ref>。商社や銀行の支店長など、東京からの転勤族が洋風の「[[ハイカラ]]」な文化をもたらし、洋食品販売の[[明治屋]]、フルーツパーラー、カフェ、パン屋などが並んだ<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 167)]]。</ref>。門司港には料亭も多く、高級料亭だけでも「菊の屋」「金龍亭」「三笠」など十数軒あった。[[1931年]](昭和6年)に清滝に移転した料亭「[[三宜楼]]」が現存している<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 135)]]、[[#堀|堀 (2017: 232)]]。</ref>。明治時代に埋立地内に造られた[[遊廓]](馬場遊郭)もあった<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 118-19)]]、[[#堀|堀 (2017: 27)]]。</ref>。[[1911年]](明治44年)、[[九州電気軌道]](後の[[西日本鉄道]])が門司と小倉・黒崎を結ぶ[[路面電車]]([[西鉄北九州線|北九州線]])を開業し、東本町や大里に停留所が置かれた。汽車よりも気楽に乗れる路面電車は、市民の足として人気を博した<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 203)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 186-88)]]。</ref>。[[1923年]](大正12年)には、東本町2丁目から田ノ浦までの[[門司築港]]線(門築電車)が建設された(後に九州電気軌道の傘下となる)<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 24-25)]]。</ref>。[[1913年]](大正2年)以降、多数の[[映画館]]も開業した<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 92-93)]]。</ref>。
 
大正期には、先行した門司市と[[小倉市]]に続き、[[若松市]]、[[八幡市 (福岡県)|八幡市]]、[[戸畑市]]も市制施行し、[[北九州工業地帯]]を形成するようになった。中央資本による大工場が多いが、立地上、原料獲得に有利であることを背景に、素材中心の産業を発展させた<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 290)]]。</ref>。
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=== 労働者と米騒動 ===
[[ファイル:Center of Moji City around 1915.jpg|thumb|left|200px|[[1915年]](大正4年)頃の門司港。]]
一方、門司港での石炭輸出を支えていたのが、「ごんぞ」「ごんぞう」<ref group="注釈">ただし、「ごんぞう」は若松で使われていた言葉で、門司では使われなかったという指摘もある。[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 161)]]。</ref>と呼ばれた[[沖仲仕]]であった。汽車で運ばれた石炭を[[艀]]に移し、それを沖待ちの巨大な汽船に届け、人力で運び上げる重労働であった。門司港は、入港船舶数に対し岸壁が足りなかったため、沖合に停泊した本船での荷役が多かった。[[1905年]](明治38年)当時、門司市の人口4万4113人に対し、仲仕は1万3886人いたという。極めて低賃金であり、[[労働争議]]も多発した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 145-48)]]、[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 181)]]。</ref>。門司港の場合、女性の沖仲仕が多いことも特徴であった<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 161-64)]]。</ref>。喧嘩と[[博奕]]は門司の名物と言われ、労働者の町では、日本刀やピストルが持ち出される乱闘事件も日常的にあった<ref>[[#林・米騒動|林 (2001: 36, 58)]]。</ref>。
 
門司市では、[[1911年]](明治44年)に[[紫川]]上流の企救郡中谷村福智渓を水源とする[[水道]]の給水が始まり、徐々に整備されていったものの<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 653)]]。</ref>、上下水道や住宅などのインフラの整備は人口急増に追い付かず、特に労働者層の衛生状態は悪く、[[コレラ]]が度々流行して多くの死者を出した<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 19)]]、[[#野澤|野澤ほか編 (2012: 166)]]、[[#北九州市史・近現代|北九州市史編さん委員会 (1987: 478-81)]]。</ref>。
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[[1913年]](大正3年)、門司市と企救半島北東部の東郷村とを結ぶ桜隧道(桜トンネル)が開通し、峻険な峠道を通らなくてよくなり、行き来が飛躍的に便利になった<ref name="門司の歴史・明治" /><ref>[[#守る会|北九州市の文化財を守る会編 (2019: 19)]]。</ref>。[[1921年]](大正11年)には初代椿トンネルも開通し、桟橋通りから、周防灘側の柄杓田、恒見方面に自動車やバスで容易に通行できるようになった<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 25)]]。</ref>。
 
[[大里町 (福岡県)|大里町]]は、[[1923年]](大正12年)2月1日、門司市に編入された。次いで、[[1929年]](昭和4年)11月1日、[[東郷村 (福岡県)|東郷村]]が門司市に編入された。[[1942年]](昭和17年)5月15日、[[枝村 (福岡県)|松ヶ枝村]]が門司市に編入されて、現在の門司区域が成立した<ref>[[#北九州市史・近現代|北九州市史編さん委員会 (1987: 335)]]、[[#川添|川添ほか (1997: 付録25)]]。</ref>。なお、現在の門司区役所(当時の門司市役所)庁舎は、[[1930年]](昭和5年)に落成した<ref>[[#門司市史S8|門司市編 (1933: 386)]]。</ref>
 
== 戦前から太平洋戦争 ==
=== 関門鉄道トンネルの開通 ===
[[ファイル:Former Dalian Sea Route Warehouse (2).jpg|thumb|left|160px|[[1929年]](昭和4年)に国際旅客ターミナルとして建てられた[[松永文庫|旧大連航路{{Ruby|上屋|うわや}}]]<ref>[[#堀|堀 (2017: 127-28)]]、[[#守る会|北九州市の文化財を守る会編 (2019: 26-27)]]。</ref>。]]
[[1931年]](昭和6年)、門司港の修築工事<ref group="注釈">門司港は、[[1918年]](大正7年)、国営化され、[[1919年]](大正8年)には[[内務省 (日本)|内務省]]による修築第1期工事が始まっていた。[[#羽原|羽原 (2016: 164)]]、[[#堀|堀 (2017: 197)]]。</ref>が完成し、[[大連市|大連]]航路、[[天津市|天津]]航路も開け、門司港は国際港として世界に知られるようになった。1か月に200隻近い外航客船が入港した<ref name="門司の歴史・昭和2">{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063491.pdf ||title=門司の歴史:昭和時代(2)戦後 |publisher=門司区役所まちづくり推進課 |format=PDF |accessdate=2019-08-01}}</ref><ref>[[#堀|堀 (2017: 225)]]、[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 164-65)]]。</ref>。[[満州事変]]以降の大陸進出に伴い、門司港は貿易とともに軍需物資や兵員輸送の拠点となった<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 164-65)]]。</ref>。
 
[[ファイル:Draft of cross Kammon straight traffic ja.png|thumb|right|200px|関門海峡連絡交通の構想図。当初、海底トンネルは小倉につながる案が立てられていたが、素通り化を恐れる門司側の運動により小森江に出入口が設けられることになった<ref>[[#堀|堀 (2017: 249-50)]]。</ref>。]]
343行目:
== 戦後 ==
=== 復興 ===
終戦後、門司港は[[引き揚げ]]の拠点の一つとなり、[[朝鮮半島]]や大陸からの引揚船が到着した<ref>[[#毎日・70年|毎日新聞西部本社報道部 (2015: 31)]]。</ref>。市街地は焼け野原であり<ref>[[#毎日・70年|毎日新聞西部本社報道部 (2015: 56-57)]]。</ref>、関門海峡は機雷除去作業が続き、[[1949年]](昭和24年)に安全宣言が出されるまで、大型船舶の入出港ができなかった<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 209)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 129, 170)]]。</ref>。この関門港閉鎖期間に、外国航路を[[神戸港]]などに奪われたと指摘される<ref>[[#堀|堀 (2017: 291)]]。</ref>。[[1950年]](昭和25年)の[[朝鮮戦争]]では、門司は物資輸送拠点となり、[[朝鮮特需]]にわいた<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 131-32)]]。</ref>。貿易関係施設は接収されてアメリカ軍の将兵が駐留した<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 170)]]。</ref>。この年、大里地区に[[門司競輪場]]が開設された([[2002年]](平成14年)に廃止)<ref>[[#毎日・70年|毎日新聞西部本社報道部 (2015: 163)]]。</ref>。しかし、朝鮮特需を最後のピークとして、石炭産業は斜陽化し、北九州全体の産業が沈滞していった<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 211-12)]]。</ref>。中国との国交が断たれ、貿易相手がアメリカ主体となったことからも、太平洋から遠い門司港の地位は低下した<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 338)]]。</ref>。
 
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[[高速道路]]の[[九州自動車道]]と[[中国自動車道]]を結ぶ計画は、[[1962年]](昭和37年)から検討されていたが、[[1968年]](昭和43年)に[[日本道路公団]]によって着工され、[[1973年]](昭和48年)11月に[[関門橋]]が開通した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 185)]]。</ref>。鉄道、国道トンネルに続き、関門橋の開通により、門司港地区は完全に通過点となったとされる<ref>[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 102)]]。</ref>。
 
もっとも、貨物に関しては、関門橋の開通により門司への集積が進んだ<ref>[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 102)]]。</ref>。朝鮮戦争以来、1972年(昭和47年)に全面解除されるまでの間、アメリカ軍による西海岸の埠頭施設の接収が長期化したこともあり、田野浦の港湾整備が進められていたが<ref>[[#新修・経済編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017経済編: 78)]]、[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 170)]]。</ref>、北九州市は、[[1971年]](昭和46年)に田野浦コンテナターミナルを開設し、さらに、[[北九州港|太刀浦コンテナターミナル]]を造成し([[1979年]](昭和54年)供用開始)、田野浦・太刀浦一帯を臨海工業地とした。中国、韓国、東南アジアとの間で、自動車部品、工業製品、雑貨などのコンテナの取扱量が急増した<ref name="門司の歴史・昭和2" /><ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 458)]]、[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 102-03)]]</ref>。
 
[[ファイル:JNR ef30 6+21fc.jpg|thumb|left|200px|[[1961年]]に[[交流電化]]された九州(門司港・[[久留米駅|久留米]]間)と[[直流電化]]方式の本州との間で[[電気機関車]]を入れ替える必要があるため(直流の関門トンネルを出るとすぐに交流となる)、[[交直流電車|交直流両用]]の[[国鉄EF30形電気機関車]]でリレーした。門司駅はそのための重要な停車駅であった<ref>[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 38-39)]]。</ref>。]]
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[[ファイル:Yamashiroya.jpg|thumb|right|200px|[[2001年]](平成13年)に閉店した[[山城屋 (百貨店)|山城屋]]。]]
一方、[[1937年]](昭和12年)に門司港地区に開業し門司唯一の[[百貨店|デパート]]として親しまれていた[[山城屋 (百貨店)|山城屋]]が、小倉を中心とするデパート戦争に取り残され、[[1994年]](平成6年)に[[倒産]]手続に入り、[[2001年]](平成13年)に閉店し、経済の衰えを象徴する出来事となった<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 207-10)]]、[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 222)]]。</ref>。観光地化された中心部を外れると、人通りが少なく、寂れつつあるとの指摘もある<ref>[[#岡本|岡本ほか (2008: 51)]]。</ref>。
 
== 脚注 ==