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酒株2006年7月13日 (木) 09:32より一部複写
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==酒造税から酒税へ==
==== 運上金の導入 ====
この機会に幕府は税収のさらなる向上を企図して、造り酒屋に対して現行の酒価格の五割もの'''運上金'''(うんじょうきん)を課すことにした。ここでいう運上金とは、今でいえば「造り酒屋の営業税」と「酒株」という「免許」の発行手数料などのことである。
 
酒類に関する課税は[[中世]]の頃から「酒役(酒屋役)」・「麹役」として行われてきた。
元禄10年10月8日、江戸では諸大名の[[江戸屋敷]][[留守居役]]が、幕府の勘定奉行[[萩原近江守]]に呼び出され、
「酒の商売人が多く、下々の者がみだりに酒を飲み不届き至極である。よって、すべての造り酒屋に対して運上金を課する。酒の価格にはこの運上金を上乗せし、今までの五割増しの値段で酒類を販売せよ」
との覚書を手渡された。
 
[[江戸幕府]]では、[[酒造統制]]のために当初は[[酒株]]制度を導入していたが、[[1697年]](元禄10年)、幕府が税収のさらなる向上を企図して、造り酒屋に対して現行の酒価格の五割もの'''酒運上'''(さけうんじょう)と呼ばれる[[運上金]]を課すことにした。ここでいう運上金とは、今でいえば「造り酒屋の営業税」と「酒株」という「免許」の発行手数料などのことである。ところが、酒屋たちが生産を控えるようになったため、はじめ幕府が期待したような税収は得られなかった。生産量が減って酒の値段は高騰したが、それで下々の者が飲酒をしなくなるかというと、そういう結果も出なかった。このため運上金は[[1709年]](宝永6年)に廃止された。ただし、以後も[[冥加金]]として復活する事になる。また[[各藩]]でも独自に酒税を定める事があった。
==== 影響 ====
「五割増し」とは、要するに消費者にとっては50%の値上げということであるから一大事であった。諸国の国許(くにもと)へはたちまち[[飛脚]]がとんだ。示達が伝わると、地方、とくに北国諸藩では酒を造っても値段が高くて売れなくなることを酒屋が警戒して米を買わなくなり、米価が急落した。
 
[[明治維新]]後、新政府は[[1868年]]に旧来の免許石数の維持を命じるとともに冥加金として造酒100石ごとに金20両を課し、翌年には鑑札冥加として造酒100石ごとに金10両、毎年の冥加として同額(ただし濁酒は毎年7両に減額)を課した。
結局、酒屋たちが生産を控えるようになったため、はじめ幕府が期待したような税収は得られなかった。生産量が減って酒の値段は高騰したが、それで下々の者が飲酒をしなくなるかというと、そういう結果も出なかった。
 
こうして成果のあらわれなかった運上金は宝永6年([[1709年]])に廃止された。
 
また、元禄の酒株改めによって幕府は一時的に全国の醸造業界の実態を把握したものの、酒造株高と酒造米高の格差は放置しておけば再びどんどん広がっていくので、これ以後も幕府は時に応じて酒株改めを繰り返すことになる。
 
[[1871年]]酒株と酒造統制を廃止し、代わりに免許料(清酒10両・濁酒5両)、免許税(稼人1人あたり清酒5両・濁酒1両2分)、醸造税(製酒代金に対して清酒5分・濁酒3分)を徴収した。[[1875年]]には'''酒類税則'''を定めて免許料を廃して醸造税を販売代金の1割とした。[[1878年]]には再び醸造税を造石高1石に対して清酒1円・濁酒30銭・白酒及び味醂2円・焼酎1円50銭・銘酒3円と改めた。
 
==関連項目==