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建安13年([[208年]])、曹操が荊州を征伐する際、于禁・張遼・張郃・[[朱霊]]・[[李典]]・[[路招]]・馮楷の7将軍は、章陵太守・[[都督]]護軍となった趙儼に統括された(「趙儼伝」)。赤壁の戦い、張遼は呉の水軍に撃沈された<ref>《哀江南賦》</ref>。
 
建安14年([[209年]])、[[陳蘭]]・[[梅成]]が[[テイ (民族)|氐]]族の6県と手を組み反乱を起こすと、于禁・[[臧覇]]らと共に討伐に赴き、張遼は張郃・牛蓋を率い、陳蘭の攻略を担当した。于禁らが攻略を担当した梅成は早々に降伏したが、その後再び反乱を起こし、陳蘭と合流するため灊山に入った。灊山も陳蘭が篭る天柱山も要害で、険しい道しか存在しない難所であったが、張遼は山の下に陣営を置き、部下の反対を押し切って陳蘭・梅成を攻撃し、2人の首を斬り、その軍勢を降伏させた。于禁が張遼に兵糧を送り、臧覇が援軍の[[孫権韓当]]を撃退したので、張遼はこの戦いに専念できたという(「于禁伝」「臧覇伝」)。曹操は諸将の功績を調べ、張遼の功績を特に称え、領地を倍増し、仮節した。
 
当時、張遼は于禁・楽進・張郃・[[徐晃]]と共に名将と謳われており、曹操が征伐に出る度に五人が交代で、進攻のときは先鋒となり、撤退のときは[[殿軍]]となっていた(「于禁伝」)。
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建安20年([[215年]])8月、張遼は楽進・李典と共に[[合肥]]に駐屯していたが、孫権は自ら10万と号した大軍を率い侵攻してきた([[合肥の戦い]])<ref>『三国志集解』10万人未満であるが、実際に孫権が10万の軍隊を用意したわけではなく、自分で10万だと言い張っているという意味。その部分は輸送部隊や工作隊。</ref>。曹操は[[張魯]]を攻撃するため[[漢中郡|漢中]]に遠征していたが、護軍の[[薛悌]]を遣わし三将に文書で「張遼と李典は城を出て戦い、楽進は城で護軍を守れ」という指令を与えていた。張遼はこれに基づいて作戦を立て、楽進が薛悌と共に城を守り、張遼は李典と共に出撃して敵軍の出鼻を挫くことにした。楽進・李典・張遼は元来不仲で折り合いが悪かったが、国家の危機にあって私怨は問わないとし、共同してこれに当たった。夜中に敢えて自らに従うという精兵を選別し800人を集め、牛を殺して将兵に振る舞い、翌朝出撃した。
 
孫権軍の先行部隊が到着すると、孫権の数万大軍が集合していない時だったので、張遼は自ら先鋒を務め敵陣へ突撃、敵兵を数十人殺し、2人の将校を斬り、孫権で迫ったので、孫権は戟を持って戦いつつ退走した。張遼は孫権の軍勢が丘に退げたのを見ると、孫権に「下りてきて戦え」と怒鳴りつけた。孫権は張遼らの軍勢が寡兵であることを見てとり、張遼軍をもって囲んだが、張遼の兵たちは「将軍、私たちを見棄てるのですか」と悲鳴をあげた。張遼は再び引き返して包囲の中に突入、配下を助け出し、さらにまた包囲を破って脱出した。この日、張遼らは半日間の間戦い続けたとされている。この余りに不意打な攻撃に、孫権軍の先行部隊はすっかり意気消沈し、この奮闘に勇気づけられて曹操軍の将兵は城を守り通した。孫権の後続部隊が続々と到着し、潘璋・賀斉が張遼を押し返し、前線が維持することに成功した。張遼は合肥に引き返し、士気が回復した孫権軍は十数日間ほど合肥城を包囲したが、しかし疫病で撤退した。
 
この時、孫権は最後衛で配下の武将らと共に撤退の指揮を執っていた。孫権らの軍勢が寡兵であることを見た張遼は七千余の騎兵を引き連れ、城から出て追撃した。退路には川が流れており、逍遥津に津橋という橋が架かっていた。この時、孫権の大軍が既に前線から撤退し、逍遥津の北には孫権と残りの近衛歩兵千余人と、[[呂蒙]]・[[蒋欽]]・[[凌統]]・[[甘寧]]が残るのみであった。孫権軍は張遼に追撃され、呂蒙・凌統が奮闘で殿軍を務め、これに応戦した。孫権は騎射で急襲に応じ、橋まで退却したが、橋はすでに曹操軍に撤去されていたため、孫権は飛騎してこれを越えたと言われる。張遼らは凌統の配下300人を全滅させ、凌統は張遼軍を数十人殺し、全身に傷を負いながらも、孫権が退却したことを知ると泳いで退げた。
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建安21年([[216年]])、孫権征伐のために親征した曹操は、張遼が戦った場所を見て嘆息したという。張遼の兵士を増加させ、居巣に駐屯させた。
 
建安22年([[217年]])2月、[[濡須口の戦い]]では臧覇と共に先鋒を務め、孫権の築城部隊を退させた。後に曹操軍が先行したため、大雨が降って水位が上がり孫権軍が迫ってきた。将士は不安になり、これを恐れて張遼は撤退を考えたが、臧覇は曹操が自分たちを見捨てることはないから命令を待つべきだと反対した。果たして次の日に後退命令があった(「臧覇伝」)。後退した曹操軍のすべて先鋒部隊が陣を築きに、その隙を突き呂蒙に撃が曹操の大軍を打ち破られ、る。結局曹操は濡須塢によって孫権の長江防衛を攻め落れず、逆に孫権軍に撃退され戦果もなく引き揚げた<ref>「呂蒙伝」『漢晋春秋』『資治通鑑』『太平御覧』『方輿紀要』</ref>。戦いの後に孫権は和睦したが、張遼を引き続き留め置き、居巣に残留する夏侯惇の下に置いた。
 
建安24年([[219年]])、関羽が[[曹仁]]を包囲した時、孫権は当時降伏同盟していたため[[揚州 (古代)|揚州]]への備えの必要がなかったことから、曹操は張遼らの軍を曹仁の救援に向かわせた。張遼が辿り着かないうちに、徐晃が関羽を破って曹仁の包囲を解いていた。張遼は曹操の本営がある摩陂に出向き、曹操は張遼を労った。その後、陳郡に駐屯した。
 
[[延康 (漢)|延康]]元年([[220年]])、正月に[[曹丕]]が王位に即くと、夏侯惇の後任となる[[前後左右将軍|前将軍]]に任じられ、領地を分割して兄の張汎と一子を列侯に封じることを許された。孫権が再び反乱を起こすと、合肥に戻った。都郷侯に昇進し、母や家族も厚遇を与えられた。10月、曹丕が帝位に即くと晋陽侯に封ぜられ、食邑1000戸を加増されて、以前と合せて2600戸となった。