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== 経歴 ==
[[東筑摩郡]][[本郷村 (長野県東筑摩郡)|本郷村]]の[[浅間温泉]]街に生まれる。祖父は[[立憲民政党]][[衆議院議員]]を務めた[[降旗元太郎]]、父は[[日本進歩党]]衆議院議員、[[第2次吉田内閣]]の[[逓信大臣]]、松本市長を歴任した[[降旗徳弥]]<ref>[http://www.fukashi-alumni.org/column/2017/05/115.html 【第115号】降旗康男監督の高校時代]</ref>。地元の名士の家系であった。[[長野県松本深志高等学校]]時代から[[フランス映画]]や[[シャンソン]]に熱中し始め、[[フランス語]]を独習。『[[失われた時を求めて]]』を原文で読む輪読会に参加した。[[東京大学]]へ進学し、[[東京大学文学部|文学部]][[フランス文学科]]を卒業。同級生には[[安藤元雄]]がいた。
[[長野県松本深志高等学校]]、[[東京大学]][[文学部]][[フランス文学]]科卒業後、1957年[[東映]]入社<ref name="nikkei20190526"/><ref name="daily20190526"/>。1978年に東映を退社しフリーとなり、1999年、『[[鉄道員 (小説)|鉄道員]]』で[[日本アカデミー賞]]監督賞・脚本賞を受賞。2002年に[[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]]、2008年には[[旭日章|旭日小綬章]]を受章した<ref name="nikkei20190526"/>。80歳を過ぎてからもメガホンを執った監督として知られた。
 
[[住友銀行]]副頭取だった叔父の降旗英弥を頼り、1957年に[[東映]]に入社<ref name="nikkei20190526"/><ref name="daily20190526"/>。[[東映京都撮影所]]で[[時代劇]]を撮るよう指示されるが、[[現代劇]]しかやりたくないと訴えて拒否する。[[東映東京撮影所]]の中でもさらに傍流であった[[歌謡映画]]に携わり、[[レッドパージ]]で[[松竹]]を逐われた[[家城巳代治]]のもとで[[助監督]]を務めた。[[東宝争議]]の主導者であったことで知られる[[カメラマン]]の[[宮島義勇]]と出会い、大きく影響を受けた<ref>[http://www.matsusen.jp/myway/furihata/frt13.html 13 挫折感の中で 名カメラマンとの出会い 光明]</ref>。そうした環境もあり、降旗もまた東映の[[労働組合]]運動に熱中していった。28歳のとき、作家[[村上元三]]の長女で7歳年下の典子と[[見合い]][[結婚]]。やはり叔父英弥の紹介であった<ref>[http://www.matsusen.jp/myway/furihata/frt14.html 14 監督昇進のころ 社トップと微妙なすれ違い]</ref>。
 
[[1966年]]、『非行少女ヨーコ』で初監督。時代劇映画の人気が落ちる中で東映社長の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]は[[任侠映画]]に活路を見出し、[[俊藤浩滋]]がプロデューサーとして活躍。降旗は当初俊藤から[[鹿島建設]]の創業者を描いた企業映画の撮影を持ちかけられたが、成功者の映画は撮りたくないと断った。それなら[[アウトロー]]の[[ヤクザ映画]]を撮るのがいいという話になり、[[安藤昇]]主演の『ギャングの帝王』を手始めに、任侠映画を多く手がけるようになった<ref>[http://www.kinenote.com/main/feature/vol01/detail03.aspx 高倉健×降旗康男「あなたへ」公開記念特集 page=3- KINENOTE]</ref>。『[[網走番外地 (東映)|新網走番外地]]』で[[高倉健]]と出会う。東映の上層部と溝ができ、専属契約を解除してフリーとなってからは、しばらく[[山口百恵]]主演の『[[赤いシリーズ]]』など[[テレビ映画]]の監督をした。
 
高倉健主演の任侠映画の大ファンであった[[倉本聰]]の熱烈なラブコールもあり、[[1978年]]の『[[冬の華]]』で東映ヤクザ映画に復帰。本来は[[山下耕作]]が監督をする予定だったが、倉本と意見が合わずに降板したため、倉本の大学の先輩である降旗がピンチヒッターとして起用された。これ以降、「降旗&高倉」コンビの映画が続々生み出された。
 
[[長野県松本深志高等学校1999年]]、[[東京大学]][[文学部]][[フランス文学]]科卒業後、1957年[[東映]]入社<ref name="nikkei20190526"/><ref name="daily20190526"/>。1978年に東映やはり高倉健が主演退社しフリーとなり、1999年、務めた『[[鉄道員 (小説)|鉄道員]]』で[[日本アカデミー賞]]監督賞・脚本賞を受賞。[[2002年]]に[[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]]、2008年には[[旭日章|旭日小綬章]]を受章した<ref name="nikkei20190526"/>。80歳を過ぎてからもメガホンを執った監督として知られた。
 
『[[追憶 (2017年の映画)|追憶]]』撮影終了後の2016年に[[パーキンソン病]]を発症し、療養生活に入る<ref name="nikkei20190526"/><ref name="daily20190526"/>。[[2019年]][[5月20日]]9時44分、[[肺炎]]のため東京都内で死去<ref name="nikkei20190526"/><ref name="daily20190526"/><ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/05/26/kiji/20190526s00041000317000c.html|title=「鉄道員」映画監督・降旗康男さんが死去 84歳 高倉健さんと数々の作品手掛ける|newspaper=Sponichi ANNEX|agency=スポーツニッポン新聞社|date=2019-5-26|accessdate=2019-5-26}}</ref><ref>[https://hochi.news/articles/20190526-OHT1T50158.html 映画監督・降旗康男さん84歳で亡くなっていた 「鉄道員」など多くの高倉健作品でメガホン] - スポーツ報知 2019年5月26日</ref>。{{没年齢|1934|8|19|2019|5|20}}。
== 人物 ==
*降旗とのコンビで「[[冬の華]]」「鉄道員」など数々の作品を作り上げた[[高倉健]]は、寡黙で撮影現場ではほとんど声を張り上げて指示を出さない降旗に対し、コンビを組むことの多いカメラマンの[[木村大作]]が大変なおしゃべりで現場を仕切るため、初めて呼ばれる役者は木村が監督だと勘違いすることもしばしばあると、自身のエッセイ「あなたに褒められたくて」でユーモラスに紹介していた。一見すると頼りないようにも思えるが、木村のような個性の強いカメラマンに撮影された作品でも、必ず降旗の個性の出た降旗作品に仕上がる。と語っている。
*[[1978年]]には、東映の[[吉川進]][[映画プロデューサー|プロデューサー]]から「『[[スパイダーマン (東映)|スパイダーマン]]』の監督をやってみないか?」と声をかけられたことがあり、しばらく後になって「いつになったら俺に『スパイダーマン』を監督させてくれるんだ」と意外な返答をしたこともあったという<ref>スパイダーマン 東映TVシリーズDVD-BOX付録冊子「スパイダーマン大検証」</ref>。
*父は[[衆議院議員]]、[[第2次吉田内閣保守政治家]]の[[逓信大臣]]家に生まれたが松本市長を歴任した[[降旗徳弥]]<ref>[http://www.fukashi-alumni.org/column/2017/05/115.html 【第115号】降旗康男監督の高校東映時代]</ref>。しかし康男自身はの労働組合運動の影響もあり、[[日本共産党]]の[[シンパ|支持者]]として知られていた。
*妻の典子は作家[[村上元三]]の長女。[[住友銀行]]副頭取である叔父の降旗英弥の紹介による結婚だった<ref>[http://www.matsusen.jp/myway/furihata/frt14.html 14 監督昇進のころ 社トップと微妙なすれ違い ]</ref>。
 
== 監督作品 ==