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ハイナ島についての植民地時代以降の記録としては、[[16世紀]]のCalkini[[コデックス#新大陸のコデックス(絵文書)|絵文書]]<ref>*[http://www.occn.zaq.ne.jp/tlaloc/secila/ponencia/18-01/resumen.html 大越翼 植民地時代におけるマヤ文書の形成とその「意味」の変化について 『カルキニ文書』を例として]</ref>の記述、[[1703年]]に[[フランス]]で刊行された地図に古代の建物がある場所としてMorros de Jaina(「ハイナの丘」)として記載されている。
 
[[19世紀]]には、カンペチェの港湾管理者であるアンドレス・エスピノザがハイナ島の地権者であったこと、主だった記録だけでも[[1843年]]にアメリカ人探検家B.ノーマン、[[1883年]]にハーバード・バンクロフト、[[1886年]]に[[ゼアジレシャルネ]]などが訪れたことがわかっている。漁労民、骨董愛好家、海賊やそれ以外の旅行者がハイナ島についての言い伝えや記録を残し、地図にも記載され続けてきた。
 
1910年から20年にかけての[[メキシコ独立革命]]で、ハイナ島は個人の所有ではなくなった。