「ムシチュイ2世」の版間の差分

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== 生涯 ==
1269年、[[アルンスヴァルデの和約]]により、[[ブランデンブルク辺境伯]]がポメレリアのムシチュイの領国に対する宗主権を獲得した。ムシチュイの弟[[ヴァルティラフ2世 (ポメレレン公)|ヴァルティスラフ2世]]はグダニスク公を務めていたが、兄とその同盟者であるブランデンブルク辺境伯たちによって領国を追われた。ヴァルティフは[[ドイツ騎士団]]国家の許に逃れ、1271年に亡くなった。生き残ったムシチュイの男系親族はポメレリア南部を支配する叔父サンボル2世のみだったが、同様にムシチュイによって領国を追われ、騎士団国家に身を寄せたのち、1276年に死んだ。こうして、ムシチュイ2世はポメレリアの単独支配者に上りつめた。
 
ムシチュイ2世には男子の相続人がなかったため、アルンスヴァルデの和約が存在する以上、その遺領はブランデンブルクに渡ると思われていた。しかし、ムシチュイは1282年にケンプノの和約を結び、遠縁にあたる[[ポーランド]]の[[ヴィエルコポルスカ]]公[[プシェミスウ2世]]を全領土の相続人に指名した。この結果、ブランデンブルクとポーランドとの関係は敵対的なものになり、1308年のドイツ騎士団による[[ドイツ騎士団のダンツィヒ占領|グダニスク占領]]を招いた。