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== 生涯 ==
1269年、[[アルンスヴァルデの和約]]により、[[ブランデンブルク辺境伯]]がポメレリアのムシチュイの領国に対する宗主権を獲得した。ムシチュイの弟[[ヴァル
ムシチュイ2世には男子の相続人がなかったため、アルンスヴァルデの和約が存在する以上、その遺領はブランデンブルクに渡ると思われていた。しかし、ムシチュイは1282年にケンプノの和約を結び、遠縁にあたる[[ポーランド]]の[[ヴィエルコポルスカ]]公[[プシェミスウ2世]]を全領土の相続人に指名した。この結果、ブランデンブルクとポーランドとの関係は敵対的なものになり、1308年のドイツ騎士団による[[ドイツ騎士団のダンツィヒ占領|グダニスク占領]]を招いた。
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