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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 細川勝久
| 画像 =
| 時代 = [[室町時代]] - [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]▼
| 画像サイズ =
| 生誕 = 不詳▼
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▲| 時代 = [[室町時代]]後期 - [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
| 改名 =▼
| 死没 = 不明
▲| 改名 =
| 別名 = 九郎
| 諡号 =
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| 霊名 =
| 官位 = [[兵部省|兵部少輔]]、兵部大輔、[[上総国|上総]][[国司|介]]▼
| 墓所 =
| 幕府 = [[室町幕府]][[備中国|備中]][[守護]]▼
▲| 幕府 = [[室町幕府]] [[備中国|備中]][[守護]]
| 藩 =▼
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▲| 藩 =
| 氏族 = [[細川氏#備中守護家|細川備中守護家]]
| 父母 = 父:[[細川氏久]]
| 兄弟 =
| 妻 =
| 子 = 養子:''[[細川義春|義春(之勝)]]''
| 特記事項 =
}}
'''細川 勝久'''(ほそかわ かつひさ)
[[応仁の乱]]では細川氏一門として本家の[[細川氏#京兆家|京兆家]]当主で[[管領]]・[[細川勝元]]の下で東軍として戦う。しかし後に勝元の子[[細川政元]]と対立するようになり、備中に在国し領国統制に苦闘することになる。
「勝」の字は勝元と同様、[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義勝]]から[[偏諱]]を賜ったものと思われ、この頃に[[元服]]を済ませたと考えられる(「久」は父・氏久から1字を取ったもの)。▼
細川氏は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に同族の[[足利氏]]の伸張と共に[[本貫]]の[[三河国
父から受け継いだ所領は他にも数か国([[讃岐国
== 生涯 ==▼
▲=== 備中守護家のなりたち ===
▲細川氏は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に同族の[[足利氏]]の伸張と共に[[本貫]]の[[三河国|三河]]から[[畿内]]・[[四国]]にその勢力圏を広げており、[[中国地方|中国]]への拠点として[[備後国|備後]]、[[備中国|備中]]への影響を深めていた。当初は本家にあたる[[細川氏#京兆家|京兆家]]による影響力の滲透を図ったようだが、後に備中守護には[[細川満之]]を祖とする細川氏の一族が任じられ、この系統は備中守護家と称されるようになった。勝久は満之の曾孫にあたる。三河にも所領があり、[[宝飯郡]]市田付近にあったことが確認できる。満之の兄・[[細川頼有]]の曾孫である[[和泉国|和泉]][[細川氏#和泉上守護家|上守護家]]の[[細川教春 (和泉上守護家)|細川教春]]は野口城・市田城を領有し、勝久は[[茂松城]](御津町広石)を領有していた。
▲父から受け継いだ所領は他にも数か国([[讃岐国|讃岐]][[那珂郡 (香川県)|那珂郡]]子松(小松)郷など)に存在したようであるが、幕府の職制としては備中守護を世襲した。しかし守護家の備中統制は成立時よりあまり強固なものではなかったとされる。
[[鎌倉時代]]の守護の職権が[[大犯三箇条]]と大番役などの軍事・警察的な性格なものであったの比べると、[[室町時代]]の守護は、幕府により国内の[[荘園]]・公領へ統治的・経済的支配を及ぼしうる様々な権限を付与された。すなわち大犯三ヶ条の[[検断沙汰|検断]]権、に加えて[[興国]]7年/[[貞和]]2年([[1346年]])には[[刈田狼藉]]の検断権、[[使節遵行]]権(刈田狼藉は武士間の所領紛争に伴って発生する実力行使であり、使節遵行は幕府の判決内容を現地で強制執行することである。この両者により、守護は国内の武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行の権利の2つを獲得した)が、[[正平 (日本)|正平]]7年/[[文和]]元年([[1352年]])には[[半済]]給付権(軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領の年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が守護に与えられた。当初は、戦乱の激しい3国([[近江国|近江]]・[[美濃国|美濃]]・[[尾張国|尾張]])に限定して半済が認められていたが、やがて全国で半済は恒久化されるようになる)、闕所地給付権、[[段銭]]・[[棟別銭]]徴収権などが付与された。守護はこれらの権限を根拠として、守護使を荘園・公領へ派遣し、段銭・兵糧・人夫などを徴発するようになった。また[[国衙]]の機能を実質的に吸収し、国衙の支配する公領([[郡]]・[[郷]]・[[保]]など)を自らの支配下へと組み込んだのである。
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これらの事も相まって、守護家には領国統制に関する主体性の発揮と言う点で不満が蓄積されていたようである。さらに京兆家の支配の及ばない地域での守護側による徴収は、かなり過酷なものであったようである。つまりこの状況は、守護家による[[一円知行|一円]]的な支配基盤が脆弱であったことを示唆しており、さらに戦国時代への移行期には後継問題も加わり、その守護領国制は大きく揺らぐ事になる。
▲== 生涯 ==
▲[[細川氏]]一門である[[細川氏#備中守護家|備中守護家]]出身で[[細川氏久]](うじひさ)の子として誕生。「勝」の字は勝元と同様、7代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義勝]]から[[偏諱]]を賜ったものと思われ、この頃に[[元服]]を済ませたと考えられる(「久」は父・氏久から1字を取ったもの)。養子に[[細川義春|義春]](之勝)。
=== 応仁の乱 ===
[[応仁の乱]]で勝久は京兆家の[[細川勝元]]の指揮下で東軍の有力武将として戦っている。[[応仁]]元年([[1467年]])[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]には洛中の戦闘([[上京の戦い]])が始まった。勝元は[[相国寺]]に本陣を定め、東軍の[[武田信賢]]らが[[花の御所]](室町殿)に西面する[[山名宗全]]方の[[一色義直]]の邸を襲撃し焼き払った。これに対し[[山名氏|山名]]、畠山、[[斯波氏|斯波]]勢ら西軍は応戦し、一条大宮の勝久邸を攻撃した。[[京極氏|京極]]、[[武田氏|武田]]、[[赤松氏|赤松]]勢も加わり戦闘は激化したが、[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]から[[5月28日 (旧暦)|28日]]にかけて勝久、教春、[[淡路国|淡路]]守護[[細川成春]]ら細川一門の邸が炎上している。勝久邸跡には[[徳正寺]]([[富小路通]][[四条通|四条]]下ル)があり、「題徳正寺[[細川井]]」と記された碑が建立されている。
この後官軍となっていた東軍有利に事態は進展していたが、[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]に[[山口市|山口]]を出立していた[[大内政弘]]らの軍勢が、[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]に[[播磨国]][[神戸港#中世|兵庫津
[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]、西軍が相国寺を攻め立てると一部の僧がこれに内応して放火、炎の中での激戦の末に東軍は退却し、花の御所に追いつめられた。西軍はさらに花の御所の奪取をも目論むが、西軍諸将も花の御所の攻撃はやや逡巡しているうちに、翌[[10月4日 (旧暦)|4日]]には[[畠山政長]]率いる東軍3千の軍勢の猛攻を受け撤退する羽目になった([[相国寺の戦い]])。この後洛中での戦いは膠着状態となっていく。なお三河の茂松城は[[駿河国|駿河]]守護[[今川義忠]]により功略されている。
=== 備中大合戦 ===
この大乱を機に、備中でも[[寺社領]]や[[公家領]]の荘園に対する土着武士の争奪戦が激化していた。それ以前に[[寛正]]2年([[1461年]])、[[新見市|新見]][[荘園|荘]]では守護被官[[安富氏]]の代官支配を退け、[[東寺]]の直轄支配を要求する土一揆が発生している。これは守護の収奪に対する反発が高まってきていたことも遠因と思われる。
備中[[守護代]][[庄元資]]は[[伊豆国|伊豆
勝久が京兆家の管領細川政元と対立すると、 [[延徳]]3年([[1491年]])にはその命を受けた庄元資との間に抗争が生じた。元資は讃岐の[[香西氏]]、[[備前国
在京していた勝久は翌[[明応]]元年([[1492年]])に軍勢を引き連れて備中に入国し、合戦におよんだ。この時政元側の庄元資には三村新四郎、新見国経、秋庭元重らが、勝久側には石川源三、庄久資らがそれぞれ加わっている。勝久は庄元資らを破り元資を国外へ追い出したが、京兆家の援助を受ける元資は[[安芸国
勝久の後継には[[阿波国|阿波]]守護家から[[細川成之]]の次男である之勝を迎えていたが、之勝は後に阿波守護家に戻り家督を継ぎ義春と称したため、備中守護家の後継は空席となっていた。そこで細川一門である細川駿河守([[細川政清]])と庄氏との間で対立が生じ、備中大合戦は再開され、庄氏が推す阿波守護家出身の[[細川之持]](義春の子)が備中守護となった。之持は政元の養子の1人である[[細川澄元]]の兄である。
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* [[御供衆]]
{{細川氏|細川備中守護家||
{{DEFAULTSORT:ほそかわ かつひさ}}
[[Category:備中細川氏|かつひさ]]▼
[[Category:戦国武将]]
[[Category:守護大名]]
▲[[Category:備中細川氏|かつひさ]]
[[Category:備中国の人物]]
[[Category:生没年不詳]]
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