「降旗康男」の版間の差分

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[[住友銀行]]副頭取だった叔父の降旗英弥を頼り、1957年に[[東映]]に入社<ref name="nikkei20190526"/><ref name="daily20190526"/>。[[東映京都撮影所]]で[[時代劇]]を撮るよう指示されるが、[[現代劇]]しかやりたくないと訴えて拒否する。[[東映東京撮影所]]の中でもさらに傍流であった[[歌謡映画]]に携わり、[[レッドパージ]]で[[松竹]]を逐われた[[家城巳代治]]のもとで[[助監督]]を務めた。[[東宝争議]]の主導者であったことで知られる[[カメラマン]]の[[宮島義勇]]と出会い、大きく影響を受けた<ref>[http://www.matsusen.jp/myway/furihata/frt13.html 13 挫折感の中で 名カメラマンとの出会い 光明]</ref>。そうした環境もあり、降旗もまた東映の[[労働組合]]運動に熱中していった。28歳のとき、作家[[村上元三]]の長女で7歳年下の典子と[[見合い]][[結婚]]。やはり叔父英弥の紹介であった<ref>[http://www.matsusen.jp/myway/furihata/frt14.html 14 監督昇進のころ 社トップと微妙なすれ違い]</ref>。
 
[[1966年]]、『非行少女ヨーコ』で初監督。時代劇映画の人気が落ちる中で東映社長の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]は[[任侠映画]]に活路を見出し、[[俊藤浩滋]]がプロデューサーとして活躍。降旗は当初俊藤から[[鹿島建設]]の創業者を描いた企業映画の撮影を持ちかけられたが、成功者の映画は撮りたくないと断った。それなら[[アウトロー]]の[[ヤクザ映画]]を撮るのがいいという話になり、[[安藤昇]]主演の『ギャングの帝王』を手始めに、任侠映画を多く手がけるようになった<ref>[http://www.kinenote.com/main/feature/vol01/detail03.aspx 高倉健×降旗康男「あなたへ」公開記念特集 page=3- KINENOTE]</ref>。『[[網走番外地 (東映)|新網走番外獄の掟に明日はない]]』で[[高倉健]]と出会う。東映の上層部と溝ができ、専属契約を解除してフリーとなってからは、しばらく[[山口百恵]]主演の『[[赤いシリーズ]]』など[[テレビ映画]]の監督をした。
 
高倉健主演の任侠映画の大ファンであった[[倉本聰]]の熱烈なラブコールもあり、[[1978年]]の『[[冬の華]]』で東映ヤクザ映画に復帰。本来は[[山下耕作]]が監督をする予定だったが、倉本と意見が合わずに降板したため、倉本の大学の先輩である降旗がピンチヒッターとして起用された。これ以降、「降旗&高倉」はゴールデンコンビとされるようになった。