「山田顕義」の版間の差分

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山田が力を注いで編纂事業に携わった[[民法 (日本)|民法]]・商法・[[民事訴訟法]]は明治23年([[1890年]])に公布されたが、欧米と日本では習慣が異なり、特に民法は日本の伝統・習慣に合わせてから施行すべきという延期派の主張で、いわゆる[[法典論争]]が起きる。この論争で延期派の勝利となり、明治25年(1892年)に、議会の否決により民法・商法の施行は延期となった。山田が直接関わった民法・商法が施行されなかったとはいえ、死没後、明治31年([[1898年]])に新民法、明治32年([[1899年]])に新商法が施行されたが、旧法という検討の基となる原稿・原案なくしてはその後の新法の実現は見なかったと考えると、山田の近代日本の成立に残した功績は大きいものといえる<ref name=g />。
 
明治24年([[1891年]])2月、司法大臣に復職する。5月、[[第1次松方内閣]]の司法大臣に留任する。直後に[[ロシア帝国]]の[[ツェサレーヴィチ|皇太子]]ニコライ(後の[[ニコライ2世]])が襲われて負傷する[[大津事件]]が発生し、犯人・[[津田三蔵]]への死刑適用に奔走した<ref group="注">大津事件手記によると、内心では皇室罪の適用に消極的だったと思われる記述がある</ref>。6月、病気療養を理由に司法大臣を辞任する<ref group="注">実情は、大津事件で犯人を死刑に処せとの明治天皇の指示にそえなかった責任をとっての辞任であった。</ref>。以後、翌年まで三崎の別荘などで療養と謹慎の生活を送る<ref name=z />。
 
=== 晩年 ===