「斎藤利治」の版間の差分

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* 関・加治田合戦において、斎藤勢(関)の長井道利が加治田城に攻め寄せ、衣丸において佐藤忠能の子・忠康(信氏)が討ち死にし、加治田・織田連合軍の旗色が悪くなった。加治田勢から湯浅讃岐が一番に関勢へ槍を突き、それに続いた他の加治田勢とともに関勢を追い返した。その働きを賞し、利治は自分の新の字を与えて[[湯浅新六]]とし、刀を授けた<ref>『南北山城軍記』</ref><ref>{{Harvnb|富加町史編集委員会|1980|ref=ge|loc=p.245}}</ref>。
* [[龍福寺]]の位牌に「厳珠院殿天長運大禅定門、天正十年六月二日、於二条城死」とある<ref>{{Harvnb|富加町史編集委員会|1980|ref=ge|loc=p.233}}</ref>。
* [[太田本郷城]]の城跡の一角は利治の菩提寺の[[円光寺 (富山市)|円光寺]]となっていて、少し離れた[[富山市立山室中学校]]そばに利治の娘(蓮与)の皮膚病を治したと伝わる「[[的場の清水]]」がある<ref>「天正6年(1578)天下統一の大志をいだく織田信長は、越中の豪族を授けて上杉勢を駆逐するため、部下の勇将斎藤新五を飛騨から越中につかわした。新五は太田庄本郷に砦を築いて、常願寺川を渡る上杉勢に備えた(中略)たまたま、新五のまな娘が皮膚病にかかり医薬の効果もないので、刀尾権現に祈願したところ、21日目の満願の夜、権現が重藤の弓・白羽の矢を携えて新五の[[枕元]]に現れ、[[丑寅]]の方角に射た矢を探して抜けば、[[薬水]]が湧き出て[[百病]]に効くと告げた。的場の老杉のもとにこんこんと湧く泉を発見し、これによって娘の病も治った。[[刀尾権現]]の本地は[[不動明王]]であるといわれている。平成14年 富山市」</ref>。
* 利治を中心に[[福富秀勝]]・[[菅屋長頼]]・[[猪子兵助]]・[[団忠正]]らと共に敵数多討取り勇勢を震い闘うが、信忠自害後「今は誰が為に惜しむべき命ぞや」と指違いへ忠死を顕けた<ref>{{Harvnb|富加町史編集委員会|1975|ref=jyo|loc=pp.723-724}}</ref>。
* [[毛利氏]]攻めで上洛の際、信長・信忠は利治の病気を心配し、[[御供]]を認めなかったが、利治は病気は[[平癒]]したとし、妻と子の最後の別れを覚悟して夜中急ぎ[[加治田城]]を打立て[[岐阜城]]を打過ぎ、[[京師]]へ向かったとある{{Efn|軍記物には、「古郷に残す妻や子に名残り惜しまれ、恩愛涙尽きぬは帰らぬ旅の首途と、後にや思ひ合わすらん、また夜をこめて進発すとある」{{Sfn|富加町史編集委員会|1975|ref=jyo|loc=p.772}}。}}。