「浄瑠璃」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目:
#[[仏教]]において、清浄(しょうじょう)、透明な[[ラピスラズリ|瑠璃]]のこと。[[薬師如来]]の仏国土。
#[[日本]]の[[伝統芸能]]における語り物の総称(本稿で詳述する)。また地方によってはこの語を特に代表的な流派である[[義太夫節]]を指して用いることがある。なお人形浄瑠璃についてのは[[文楽]]を参照。
#[[伝統芸能]]において、[[語り物]]の一つ。(本稿で述べる)
#特に、代表的な流派である[[義太夫節]]のことがある。
#人形浄瑠璃についての詳細は、[[文楽]]を参照のこと。
----
'''浄瑠璃'''(じょうるり)は、日本の伝統的な音曲 ([[音楽]]) の一
 
浄瑠璃は、[[三味線]]を[[伴奏]]として[[太夫]]が詞章を語り、本来はこれに操り[[人形]]が加わる芸能である(ただし人形を加えない流儀も多い)。詞章が単なる[[]]ではなく、劇中人物の[[台詞]]やその仕草、演技の描写をも含むものであるために、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃の口演は「歌う」ではなく「語る」という用語を以てし、浄瑠璃系統の音曲をまとめて[[語り物]]と呼ぶのが一般的である。
 
なお、浄瑠璃は[[義太夫節]]のことであるという説明が往々にして見られるが、これは誤りである。義太夫節はあくまでも浄瑠璃の一流派であって、同一のものではない。ただし、[[常磐津節]]や[[清元節]]などの義太夫節以外の個々の流派(特に義太夫節以降に成立した流派)、およびその音曲のことを「浄瑠璃」と呼ぶことは稀であり、単に浄瑠璃と言った場合は、通例義太夫節を指すことが多い。
 
==起源==
[[Image:bunraku_kugutsu.gif|thumb|120px|傀儡子]]
その起源は古く、平安時代前期に韓国から原型が伝えられ、[[中世]]末期ごろ[[御伽草子]]の一種『[[浄瑠璃十二段草子]]』(『浄瑠璃物語』。浄瑠璃御前と[[牛若丸]]の情話に[[薬師如来]]など霊験譚をまじえたもの)を語って[[]][[]]の功徳を説いた芸能者にあるとするのが通説であり、浄瑠璃の名もここから生れたものである。その内容はだいたいにおいて[[享禄]]年間(1528-32年)には完成していたと考えられる。最初期は[[平曲]]、[[謡曲]]、[[説教節]]などの節付けに学んで扇拍子を伴奏にしたようだが、[[永禄]]年間(1558-70年)に[[琉球]]から[[三線]]が渡来し、これが[[三味線]]へと発達するにしたがって飛躍的な成熟を遂げることになる。三味線をいち早く音曲に取入れたのは[[上方]]の[[盲人]]であったが([[地唄|上方地唄]])、[[文禄]]年間(1593-96年)にいたってこれが[[傀儡子]](''くぐつし''もしくは''かいらいし''。人形を操って見せる芸能者)の伴奏として用いられるようになり、さらにこれと浄瑠璃節が合体することによって、現在にまでいたる浄瑠璃音曲が完成してゆく。
 
==初期の浄瑠璃==
浄瑠璃が本格的な芸術性を備えるようになるのは江戸期に入ってからである。杉山丹後掾と薩摩浄雲によって京から江戸へともたらされた浄瑠璃は、彼らの門下によって多くの流派にわかれ、世人に大いに受入れられるようになった。杉山丹後の門下からは江戸半太夫([[半太夫節]])、十寸見河東([[河東節]])が、薩摩浄雲の門下からは薩摩外記太夫([[外記節]])、大薩摩主膳太夫([[大薩摩節]])、都太夫一中([[一中節]])、竹本筑後掾([[義太夫節]])などが輩出し、浄瑠璃の歴史の上で一時期を画することとなった(半太夫節と外記節は[[河東節]]に、大薩摩節は[[長唄]]に吸収されて残っている)。以上のうち義太夫節を除くものを一括して'''古浄瑠璃'''と称する。
 
この時期の詞章・戯曲はいまだ未発達なものが多く、かならずしも高い評価を与えることはできない。ただし、江戸を中心にして発達した[[金平浄瑠璃]]と呼ばれる一連の作品は、後に[[歌舞伎]]の[[荒事]]に大きな影響を与えることになった。
 
 
==義太夫節の完成==
[[貞享]]元年(1684年)ごろ、[[竹本義太夫]](後に筑後掾)が大坂道頓堀に竹本座を開設して義太夫節を樹ててよりのちは、浄瑠璃に新たな時代が訪れる。名作者[[近松門左衛門]]と結ぶことによって、戯曲の文学的な成熟と詞章の洗練が行われ、義太夫節と人形浄瑠璃は充分に芸術としての鑑賞に耐えうるものとなった。この新しい様式は上方の人士から熱狂的な支持を受け、義太夫節はそれ以前の古浄瑠璃を圧倒することになる。たとえば古浄瑠璃時代にはその人の名を付して何某節と呼ばれていたように、浄瑠璃の流派は多分に個性的な名人芸の代名詞として行われ、決してそれがひとつの様式として後代に受け継がれる性格のものではなかったが、義太夫節にいたってはそのあまりに完璧な内容のために、義太夫節という流儀名が竹本義太夫死後もひとつの様式の名前として用いられつづけることになったのは、その象徴的な事例であろう。義太夫節の特徴は「歌う」要素を極端に排して、「語り」における叙事性と重厚さを極限まで追求したところにある。太夫と三味線によって作りあげられる間の緊迫、言葉や音づかいに対する意識、一曲のドラマツルギーを「語り」によって立体的に描きあげる構成力、そのいずれをとっても義太夫こそは浄瑠璃におけるひとつの完成形であるというにふさわしい。