「コンスタンティ・ヴワディスワフ・ソビェスキ」の版間の差分

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母マリシェンカはローマ移住後、コンスタンティを枢機卿にする計画を練ったが、計画はコンスタンティ自身の無作法な振る舞いによって頓挫した。1701年コンスタンティはローマの母の許を訪れた際、トッラ(Tolla)という名のローマ美人と恋仲になった。ところが彼女は大貴族のジェンツァーノ公{{仮リンク|ガエターノ1世・スフォルツァ・チェザリーニ|it|Gaetano I Sforza Cesarini, II principe di Genzano}}の情婦で、彼女は不貞に怒った公爵にマリシェンカの邸宅の前で怪我を負わされた。結局、コンスタンティは情婦を寝取ったことを公爵に謝罪した。
 
大北方戦争が始まると、コンスタンティは長兄[[ヤクプ・ルドヴィク・ソビェスキ]]の[[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世(強王)]]から王位を奪い取る計画に参加したが、そのことを察知したアウグスト強王によって1704年2月兄ともども誘拐・投獄された。1706年、[[アルトランシュテット条約]]締結に伴い、兄弟はスウェーデン王[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]によって解放された<ref>http://www.wilanow-palac.pl/sobieski_konstanty_wladyslaw_2.html</ref>。
 
1708年11月、おそらく幼馴染みだった[[マリア・ユゼファ・ヴェッセル]]と突然結婚した<ref>http://www.wilanow-palac.pl/sobieski_konstanty_wladyslaw_2.html</ref>。この結婚を身分違いと見なすソビェスキ家や姻戚からは強く反対された。しかしコンスタンティはすぐさま新妻に飽き、翌月12月にはグダニスクを離れてしまう。