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'''孟 思誠'''([[朝鮮語]]:맹사성、メン・サソン、[[至正]]20年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]([[1360年]][[8月28日]]) - [[正統 (明)|正統]]3年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]([[1438年]][[12月22日]]))は、[[韓国]][[李氏朝鮮]]初期の文臣政治家宰相である。字は'''自明'''(자명)、号は'''古佛'''(고불)·'''東浦'''(동포)、諡号は'''文貞'''(문정)、本貫は'''新昌孟氏'''。[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]時代の名宰相として知られる。
 
[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の[[吏曹]][[判書]][[芸文館]][[大提学]]を兼ねし後の[[右議政]]に上がった。「太宗実録」の編纂に参加と[[左議政]]がされており、「八道地理」の編集と発行した。著書には「江湖四時歌」がある。[[李氏朝鮮]]の[[清白吏]]に選ばれており、窯の代わりに[[牛]]に乗って通った。
 
== 生涯 ==
[[1360年]]開京([[開城]])に生まれる。1386年に、[[高麗]]の文科に合格し[[芸文館]]・[[春秋館]]検閲、典儀監丞・起居舎人・右献納などを歴任し、彼の妻東州崔氏の祖父[[崔瑩]]は[[李成桂]]の易姓革命に反対している途中殺されたが、彼は官職に出かけた。
 
[[1406年]](太宗6)に、使臣の侍従に明を行っており、帰国後の[[漢城府]][[右尹|判尹]]になった。[[1408年]][[司憲府]][[司憲府#構成|大司憲]]在職時に、彼は[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の許可もなしに馬[[趙大臨]]を鞫問て太宗の怒りを買って[[韓州]]で流刑されたが、[[領議政]][[成石璘]]の弁護に釈放され、後の彼は再起用されて[[礼曹]][[参判]]を経て1416年[[礼曹]][[判書]]に昇進、[[戸曹]]判書・[[判書工曹]]、工曹判書を歴任した。
 
[[太宗]]が[[寧大君]]を[[王世子]]職を剥奪しようとすると、彼は[[王世子]]職を剥奪反対した。しかし[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]即位後も[[吏曹]][[判書]]に登用された。[[1419年]](世宗1)[[吏曹]][[判書]][[芸文館]][[大提学]]職を兼任した。[[1425年]]使臣として[[明]]を行った。1427年(世宗9)[[議政府]][[右議政]]になって、[[1429年]][[太宗実録]]の編纂に参加しと[[1431年]][[左議政]]に任命されて[[春秋館]]領事を兼任して「[[八道地理志]]」の作成と発行に参加した。
 
== 著書 ==
*「江湖四時歌」
 
== 孟 思誠を演じた人物 ==
*「[[龍の涙]](용의눈물)」(1995年・KBS)[[林赫柱]](임혁주)
*「[[大王世宗]](대왕세종)」(2008年・KBS)[[安大勇]](안대용)