「ワルシャワ蜂起」の版間の差分

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7日には市街地を何とか横断し、国内軍占領地を分断し、包囲されていた部隊を解放した。しかし、市街地に立て籠もる国内軍の抵抗は続き、激しい市街戦が続く。国内軍も8月19日に総反撃に出て、電話局を占領し、120名のドイツ兵が捕虜になった。ディルレヴァンガー連隊、カミンスキー旅団の残虐行為への報復として、捕虜のうち[[武装親衛隊]]兵士や外国人義勇兵は全員その場で処刑された。
 
===ソ連赤軍の対応===
[[ファイル:Warsaw Uprising - Stolica 006.jpg|250px|thumb|left|進軍する[[人民軍 (ポーランド)|ポーランド人民軍]]]]
ヴィスワ川対岸のプラガ地区の占領に成功した赤軍は、市街地への渡河が容易な状況にあったにもかかわらず、国内軍への支援をせずに静観した。赤軍と共に東方からポーランドへ進軍しプラガ地区に到着していた[[ズィグムント・ベルリンク]]将軍の率いる{{仮リンク|第1ポーランド軍|en|First Polish Army (1944–1945)}}のみが対岸の国内軍支援のための渡河を許され、彼らポーランド人部隊はベルリンク将軍以下必死でレジスタンスへの支援をしたものの、その輸送力は充分ではなかった。赤軍は輸送力に余裕があったにもかかわらず第1ポーランド軍に力を貸さなかった。のちに[[ポーランド人民共和国]]最後の国家指導者で[[1989年]]の新生[[ポーランド共和国]]初代[[大統領]]となった[[ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ]]はこの時、第1ポーランド軍の青年将校として現地におり、物資補給作戦に参加している。彼はこのときの燃え盛るワルシャワ市街を眺めながら、蜂起を傍観した赤軍に対して涙ながらに感じた悔しさをのちに自伝『ポーランドを生きる』のなかで赤裸々に吐露している。