「官園 (開拓使)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
加筆
6行目:
最も早く試験が始まったのは、すでに一定の開拓が進んでいた北海道南部の函館周辺であった。1870年に渡島国亀田郡七重村に'''七重官園'''(ななえかんえん)が設置された。これは、[[プロシア]]人ガルトネルの租借地を買い戻したいわゆる「[[ガルトネル開墾条約事件]]」の跡地に設置された。家畜、牧草、農業機械などを欧米より導入し、実証・展示に及んだ。1875年には水稲試作、1877年からは水力製粉、1880年からは醸造、畜産加工や鮭の人工孵化まで手がけることとなった。
 
一方、開拓使教師([[お雇い外国人]])であった[[ホーレス・ケプロン]]は、[[1871年]]にその職に就任すると直ちに、海外からの種苗や種畜の調達、気候の解析など、精力的に農業に関する建言を行った。その中で、将来首府となるであろう札幌に官園を設けることを提案し、1871年に設置された御手作畑を含む地域を1873年に'''札幌官園'''(さっぽろかんえん)と定めた。また開拓次官であった[[黒田清隆]]は、これら種苗や種畜を北海道に持ち込む前に馴化させるため、東京の3か所の大名屋敷跡にその地を求め、1871年に'''東京官園'''(とうきょうかんえん)を設置し、技術指導者として[[ルイス・ベーマー]]や[[エドウィン・ダン]]が招かれた。その後、北海道東部の根室には、1874年に'''根室官園'''(ねむろかんえん)が設置され、それぞれの地域実情に合わせた試験と実証を積み重ねた。
 
官園では、開拓の現場において西洋の農業技術を普及するための技術者である'''現術生徒'''や、研修を受けて村で洋式農業を実践する'''農業修業人'''の育成も担った。これら生徒や修業人は、試験の成果を普及するのに大きな役割を果たした。
 
官園は、[[1882年]]の開拓使廃止と3県分治により縮小に向かう。北海道の農業試験研究が次の段階へ進むのは、[[1886年]](明治19年)1月の[[北海道庁_(1886-1947)|北海道庁]]設置されにより開拓が沿から内陸に道の農業普政策が次の段階へと進んでゆく。同年5月に[[旭川]]に[[北海道立総合研究機構農業研究本部上川農業試験場|忠別農作試験場]]が設置され、[[北海1888年]](明治21年)に設置された上川二等測候所による[[気象]]観測を活用しつつ、同地に適した穀類等の試作が行われた。この忠別農作試験場は、後に立上川農事試験場]]などが設立へと改称される時期、十勝・北見・渡島含む4箇所の道立農事試験場のひととなり、れら4箇所の道立農事試験場を柱して、道内各地の気象に適した農作物改良穀物試作が実施されてゆくことになる。
 
== 沿革 ==