削除された内容 追加された内容
→‎経歴: 誤字訂正
m →‎経歴: 校正
27行目:
[[339年]]8月、東晋の[[荊州]]刺史[[ユ亮|庾亮]]が[[武昌郡|武昌]]を鎮守するようになると、配下の[[毛宝]]・[[樊峻]]に邾城へ出鎮させて北伐の拠点としたので、石虎はこれを患った。その為、夔安は[[都督|大都督]]に任じられると、[[石鑑]]・[[石閔]]・[[李農]]・[[張賀度]]・[[李菟]]の5将軍を従え、5万の歩兵で荊州・揚州北辺に、2万の騎兵で邾城に侵攻させた。毛宝は庾亮に救援を要請したが、庾亮は城を固く守って動かなかった。
 
9月、石閔は沔陰において東晋軍を破り、将軍[[蔡懐]]の首級を挙げた。夔安は李農と共に沔南を攻め落とし、石宣配下の将軍[[朱保]]は白石において東晋軍を破り[[鄭豹]]・[[談玄]]・[[郝荘]]・[[随相]]・[[蔡熊]]の5将を討ち取った。張賀度は邾城を攻め落とし、6千人<ref>『晋書』には1万人余りとも</ref>を討ち取った。毛宝・樊峻は包囲を突破して逃走したが、長江において溺死した。夔安は軍を進めて胡亭へ至ると、[[江夏郡|江夏]]へ侵攻し、将軍[[黄沖]]・[[義陽郡]][[太守]][[鄭進 (東晋)|鄭進]]を尽く降した。夔安はさらに進んで石城を包囲すると、[[竟陵郡]]太守[[李陽 (東晋)|李陽]]に防衛を破りって城を攻め落とし、5千人余りの首級を挙げた。その後、夔安は軍を撤退させると、漢東で略奪して7千戸余りを手に入れ、幽州・冀州へ移住させた。
 
[[340年]]9月、この世を去った。