「荒木宗太郎」の版間の差分

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[[熊本藩|肥後藩]]の一家に生まれる。[[1588年]]([[天正]]16年)ごろ、長崎に移住し[[豊臣秀吉]]から[[朱印状]]を交付されたことにより、[[朱印船|朱印船貿易]]の関係の仕事に携わった。朱印状を交付された商人は他にも[[末次平蔵]]、[[船本弥平次]]、[[糸屋隋右衛門]]、[[大阪市|大坂]]では[[末吉孫左衛門]]、[[京都]]では[[茶屋四郎次郎]]、[[角倉与一]]、伏見屋、[[堺市|堺]]では伊勢屋らがいる。
 
その後、長崎から[[東南アジア]]を中心に朱印船貿易の向上に携わるため、出航した。[[1606年]]([[慶長]]11年)にシャムの[[アユタヤ王朝]](現在の[[タイ王国|タイ]])、[[1610年]](慶長15年)には[[安南]]の[[広南国]](現在の[[ベトナム]])へそれぞれ訪問した。[[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年)からは[[日本]]と交趾([[インドシナ半島]])を数回航海したことにより、当時の安南の広南国君主[[阮福源]]の恩恵を受けた。これによって彼の養女であった{{仮リンク|阮福玉華|zh|阮氏玉華|label=アニオー}}(和名:王加久戸売)との異例の結婚により、一躍名を馳せた。なお、2人の間には一人の娘がいる。
 
[[1632年]]([[寛永]]9年)に[[江戸幕府]]からの[[鎖国]]要請により、一家は帰国した。死去後も荒木家の代々が朱印船貿易の商人を継いだ。なお、彼の墓は長崎市[[鍛冶屋町 (長崎市)|鍛冶屋町]]にある[[大音寺]]境内の後山墓地内に所在する。