「前畑秀子」の版間の差分

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{{MedalGold|[[1936年ベルリンオリンピックの競泳競技|1936 ベルリン]]|女子 200m平泳ぎ}}
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[[File:Hideko Maehata 1936.jpg|thumb|1936年ベルリン五輪|代替文=|250x250ピクセル]]
'''前畑 秀子'''(まえはた ひでこ、[[1914年]]〈[[大正]]3年〉[[5月20日]] - [[1995年]]〈[[平成]]7年〉[[2月24日]])は、[[和歌山県]][[伊都郡]]橋本町(現・[[橋本市]])出身の[[水泳]]選手。結婚後の姓は兵藤(ひょうどう)といい、'''兵藤秀子'''の名前でもよく知られている。
 
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[[1932年]](昭和7年)に開催された第10回大会[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]]の200m[[平泳ぎ]]に出場し、[[銀メダル]]を獲得した。[[金メダル]]は[[オーストラリア]]の[[クレア・デニス]]で、前畑とはわずか0.1秒差だった。大会後は家庭の事情もあり引退も考えたが、オリンピック誘致に奔走していた[[東京都知事一覧|東京市長]]の[[永田秀次郎]]から「なぜ君は金メダルを獲らなかったのか。0.1秒差ではないか。無念でたまらない」と涙を流さんばかりに祝賀会で説得されるなど、周囲の大きな期待に押され、現役続行を決意する。1日に2万メートル泳ぎきる猛練習を重ね、[[1933年]](昭和8年)9月30日に200m平泳ぎの世界新記録を樹立する。
 
[[File:Hideko Maehata 1936.jpg|thumb|1936年ベルリン五輪|代替文=|250x250ピクセル]]
3年後の[[1936年]](昭和11年)、[[ナチス・ドイツ|ナチス体制下のドイツ]]で開かれた[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック]]の200m平泳ぎに出場し、地元ドイツの[[マルタ・ゲネンゲル]]とデッドヒートを繰り広げて、1秒差で勝利する。日本人女性として五輪史上初めての金メダルを獲得した。この試合を[[ラジオ]]中継で実況した[[日本放送協会|NHK]]の[[河西三省]][[アナウンサー]]は、中継開始予定時刻の午前0時を過ぎたために「スイッチを切らないでください」の言葉からアナウンスを始めた。
[[ファイル:Inge_Sørensen,_Hideko_Maehata,_Martha_Genenger_1936.jpg|サムネイル|五輪史上初の日本人女性金メダリストとして表彰台に立つ前畑]]