「多治比三宅麻呂」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
「雑物」などをリンク。
28行目:
[[東山道]][[巡察使]]を経て、[[慶雲]]元年([[704年]])[[従六位|従六位上]]から三階昇進して[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]。慶雲4年([[707年]])[[文武天皇]]の[[崩御]]に際して[[装束司|御装束司]]を務める。
 
[[元明天皇|元明]]朝では、[[鋳銭司|催鋳銭司]]・造[[雑物]]法用司が初めて設置されるとその官人に任ぜられる一方、[[和銅]]4年([[711年]])[[正五位|正五位上]]、和銅6年([[713年]])[[従四位|従四位下]]と順調に昇進し、元明朝末の和銅8年([[715年]])従四位上・[[弁官|左大弁]]に叙任される。
 
[[元正天皇|元正]]朝でも、[[民部省|民部卿]]・[[河内国]][[按察使|摂官]]など歴任し、[[養老]]3年([[719年]])[[正四位|正四位下]]、養老5年([[721年]])正四位上と順調に昇進を続ける。また同年[[参議]]に任ぜられたともされ、参議任官が事実であれば、既に[[大納言]]・[[多治比池守]]がいた[[多治比氏]]は[[藤原氏]]に続いて一族から同時に複数の議政官を出したことになる。しかし、翌養老6年([[722年]])[[謀反]]を誣告したとして罪を得て、[[斬首刑|斬刑]]に処せられるところを[[皇太子]]・首皇子(のち[[聖武天皇]])の奏請によって[[恩赦|減刑]]されて[[伊豆国]]への[[流罪]]となった<ref>『[[続日本紀]]』養老6年正月20日条</ref>。この誣告事件について、当時[[右大臣]]として実質的に[[太政官]]の首班に立っていた[[長屋王]]が、[[藤原四兄弟]]と政治路線の違いが顕在化しつつある中で、長屋王に反発していた新任参議の三宅麻呂を除いて、代わりに親交のある[[阿倍広庭]](一説では長屋王の舅)を議政官に加えることで、少しでも太政官運営の円滑化を図ろうとしたという、策謀の結果とする見方もある<ref>木本好信「藤原麻呂の前半生について-長屋王の変前夜まで-」『甲子園短期大学紀要』No.28</ref>。
43行目:
* 慶雲4年([[707年]]) 10月3日:[[装束司|御装束司]]([[文武天皇]]崩御)
* [[和銅]]元年([[708年]]) 2月11日:[[鋳銭司|催鋳銭司]]
* 和銅2年([[709年]]) 3月23日:造[[雑物]]法用司
* 時期不詳:[[正五位|正五位下]]、[[弁官|左中弁]]<ref>『[[多胡碑]]』碑文による。</ref>。
* 和銅4年([[711年]]) 4月7日:[[正五位|正五位上]]。
54行目:
 
== 系譜 ==
* 父:[[多治比古王]]
* 母:大伴比羅夫の娘
* 妻:不詳