「日近合戦」の版間の差分
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当時[[奥平氏]]は、[[遠江国]]・[[駿河国]]を主に領していた[[今川氏]]に仕えていたが、[[奥平貞能]]が今川氏より離反。[[天文 (元号)|天文]]末[[三河国|三河]]に進出していた[[織田信長]]([[織田氏]])に仕え、[[大給松平家]]などもこれに同調したため、[[東条松平家]]などが反発。'''日近合戦'''へと発展した。
なお、この離反は従来は貞能の父である[[奥平貞勝]]によるものとされてきたが、大石泰史によって奥平一族の多くが貞能に従ったものの、貞勝は今川氏への忠義を曲げなかった。にも関わらず一族の大半が従う離反であったために江戸時代の編纂史料の段階で誤認されて貞勝が離反したことにされたと指摘している<ref>大石泰史「今川氏と奥平氏-〈松平奥平家古文書写〉の検討を通じて」(初出:『地方史静岡』21号
== 開戦後の経緯 ==
=== 2月14日 - 2月20日(旧暦) ===
2月14日[[栗生将監]]の居城[[秦梨城]]を奥平貞勝が攻め落とし、2月20日に大林にて本陣を構えるが、[[松平忠茂]]・[[松平康親|松井忠次]]率いる軍に苦戦し[[日近城]]まで後退するが、奥平軍の放った矢が忠茂の胸に当たり、大林で[[戦死]]した
=== 2月27日(旧暦) ===
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== 参考 ==
== 関連項目 ==
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