「三笠宮崇仁親王」の版間の差分

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**三笠宮は、特に自由な軍隊生活を送っていた騎兵第15連隊時代を懐かしんでおり、[[第二次世界大戦]]後は「[[戦友会]]」である『騎兵第15連隊将校団会』の名誉会長を務め、同会が2010年(平成22年)に解散されるまで、総会および懇親会に妃と伴に、積極的に出席していた<ref>[http://www.geocities.jp/bane2161/kihei15rentai.htm 騎兵第15連隊]{{信頼性要検証|title=個人サイトの資料。|date=2016年10月}}</ref>{{信頼性要検証|title=個人サイトの資料。|date=2016年10月}}。また、騎兵第15連隊自体の戦友会である『習志野三笠会』の「三笠」は、三笠宮から取られたものである。
*太平洋戦争については「1943年1月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして1年間在勤しました。その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました」<ref>{{Cite book |和書 |author=三笠宮崇仁 |title=古代オリエント史と私 |publisher=[[学生社]] |pages={{要ページ番号|date=2016年10月}} |date=1984 |isbn=4-311-20131-1 |ncid=BN01436120}}</ref>「聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけ離れたものであったからこそ、そして、内容が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである」「こうして聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」<ref>{{Cite book |和書 |author=三笠宮崇仁 |title=帝王と墓と民衆 オリエントのあけぼの(付・わが思い出の記) |publisher=[[光文社]] |series=カッパブックス |page={{要ページ番号|date=2016年10月}} |date=1956 |ncid=BN06271695 |asin=B000JB1AIG}}</ref>などと述懐している。
*1971年(昭和46年)に、[[イラン]]の[[アケメネス朝]]建国2500周年を祝った[[イラン建国二千五百年祭典]]に夫人百合子妃とともに日本を代表して出席した。
 
==系譜==