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'''武藤 信義'''(むとう のぶよし、[[1868年]][[9月1日]]([[慶応]]4年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]]) - [[1933年]][[7月27日]]<ref name=":0">{{Cite web|title=武藤 信義(ムトウ ノブヨシ)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E8%97%A4%20%E4%BF%A1%E7%BE%A9-1656448|website=コトバンク|accessdate=2020-05-23|publisher=}}</ref>)は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。[[元帥 (日本)|元帥]]、[[陸軍大将]]、[[正二位]][[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]][[金鵄勲章|功一級]][[男爵]]。[[関東軍]][[司令官]]兼[[満州国|駐満]][[大使]]兼[[関東庁|関東長官]]・[[教育総監]]・[[軍事参議官]]・[[東京警備司令官]]等を歴任した。
 
==経歴==
[[慶応]]4年(1868年)、現在の[[佐賀県]][[杵島郡]][[白石町]]牛間田に<ref>{{cite web|title=白石町ホームページ 白石町ゆかりの人|publisher=[[佐賀県]][[白石町]]|date=|url=https://www.town.shiroishi.lg.jp/jyuumin/manabu/yukari.html|accessdate=2018-01-03|archiveurl=|archivedate=}}</ref>、[[佐賀藩]]士・武藤信直の次男として生まれる<ref name=":0" />
 
教師を志して[[佐賀師範学校]]に入学するも、失望して中退したのちは陸軍を志して[[陸軍教導団]]へ入団する。卒業後、陸軍[[歩兵]]二等軍曹(後の[[伍長]]に相当する。)に任官。[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]を[[1892年]]([[明治]]25年)7月23日卒業(3期生)。翌年3月13日に陸軍[[歩兵]][[少尉]]に任官。卒業後、[[歩兵第24連隊]][[小隊]]長として[[日清戦争]]に出征。戦後は[[陸軍大学校]]に入校。[[1899年]](明治32年)、第13期の首席の成績を修めて[[恩賜の軍刀]]を授けられる<ref name=":0" />
 
[[日露戦争]]に[[近衛師団]][[参謀]]として参戦し<ref name=":0" />、[[鴨緑江会戦]]勝利の功により鴨緑江軍[[参謀]]に進む。[[奉天会戦]]に参加<ref name=":0" />。
[[日露戦争]]における[[鴨緑江会戦]]勝利の功により、[[鴨緑江軍 (日本軍)|鴨緑江軍]][[参謀]]に進む。日露戦帰還後は、ロシア公使館付[[駐在武官|武官補佐官]]、[[1908年]](明治41年)12月21日に[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]欧米課長。[[1911年]](明治44年)1月26日に陸軍[[大佐]]、[[1912年]]([[大正]]元年)12月18日から[[近衛歩兵第4連隊]]長、大正4年(1915年)4月10日から参謀本部作戦課長を務める。[[1916年]](大正5年)5月2日[[陸軍少将]]、歩兵第23[[旅団]]長。[[1918年]](大正7年)7月24日に参謀本部附を命ぜられて[[ハルピン特務機関]]長。同年11月9日から[[オムスク特務機関]]長、[[シベリア出兵]]にあっては現地支援した。[[1919年]](大正8年)1月15日参謀本部第1部長、同年7月25日[[中将|陸軍中将]]、総務部長に移る。
 
[[日露戦争]]における[[鴨緑江会戦]]勝利の功により、[[鴨緑江軍 (日本軍)|鴨緑江軍]][[参謀]]に進む。日露戦帰還後は、ロシア公使館付[[駐在武官|武官補佐官]]、[[1908年]](明治41年)12月21日に[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]欧米課長。[[1911年]](明治44年)1月26日に陸軍[[大佐]]、[[1912年]]([[大正]]元年)12月18日から[[近衛歩兵第4連隊]]長<ref name=":0" />、大正4年(1915年)4月10日から参謀本部作戦課長を務める。[[1916年]](大正5年)5月2日[[陸軍少将]]、歩兵第23[[旅団]]長。[[1918年]](大正7年)7月24日に参謀本部附を命ぜられて[[ハルピン特務機関]]長。同年11月9日から[[オムスク特務機関]]長、[[シベリア出兵]]にあっては現地支援した。[[1919年]](大正8年)1月15日参謀本部第1部長、同年7月25日[[中将|陸軍中将]]<ref name=":0" />参謀本部総務部長<ref name=":0" />に移る。
[[1921年]](大正10年)5月5日[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]長に親補、翌年11月24日参謀次長。[[1925年]](大正14年)5月1日に軍事参議官に親補、翌年3月2日から東京警備司令官を兼ねて[[陸軍大将]]に親任。同年7月28日に[[関東軍]]司令官に就任。[[1927年]]([[昭和]]2年)8月26日、教育総監。[[1932年]](昭和7年)5月15日に[[五・一五事件]]が起った事により引責辞任、5月26日から軍事参議官に退く。
 
[[1921年]](大正10年)5月5日[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]長に親補し、シベリアに赴く<ref name=":0" />。翌年11月24日参謀次長<ref name=":0" />。[[1925年]](大正14年)5月1日に軍事参議官に親補、翌年3月2日から東京警備司令官を兼ねて[[陸軍大将]]に親任。同年7月28日に[[関東軍]]司令官に就任。[[1927年]]([[昭和]]2年)8月26日、教育総監<ref name=":0" />。[[1932年]](昭和7年)5月15日に[[五・一五事件]]が起った事により引責辞任<ref name=":0" />、5月26日から軍事参議官に退く。

[[1932年]](昭和7年)8月8日、再び関東軍司令官に就任<ref>[{{NDLDC|2958154/8}} 昭和7年8月9日官報第1683号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ8] 「敍任及辭令 ◉昭和七年八月八日 陸軍大將正三位勲一等功二級 武藤信義 補關東軍司令官」</ref>、[[満洲国駐箚特命全権大使|満州国駐在特命全権大使]]と関東長官を兼務<ref name=":0" /><ref>[{{NDLDC|2958154/1}} 昭和7年8月9日官報第1683号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ1] 「敍任及辭令 ◉昭和七年八月八日 陸軍大將正三位勲一等功二級 武藤信義 兼任特命全權大使關東長官」</ref>。9月15日に同国務総理・[[鄭孝胥]]との間で[[日満議定書]]を調印。満州国内の治安維持や[[熱河]]平定の軍功により、[[1933年]](昭和8年)5月3日に[[元帥]]号を賜る<ref name=":0" /><ref>[{{NDLDC|2958371/4}} 昭和8年5月4日官報第1899号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4] 「敍任及辭令 昭和八年五月三日 陸軍大將正三位勲一等功二級 武藤信義 元帥府ニ列セラレ特ニ元帥ノ稱號ヲ賜フ」</ref>。
 
1933年7月22日に[[黄疸]]に罹る。一旦回復したものの、25日に[[腹膜炎]]を併発して[[新京]]の官邸で倒れ、7月28日午前7時47分薨去<ref name=外務省報>{{アジア歴史資料センター|B13091692400|外務省報 第十八巻:外務省報第二百八十一号(昭和八年八月十五日)/雑報}} 画像1「雜報 …武藤駐滿大使薨去 關東軍司令官兼特命全權大使關東長官元帥陸軍大將男爵武藤信義ハ七月二十二日胃腸障害ヨリ黃疸ヲ發シ其ノ後經過順調ナリシモ二十五日ニ至リ病勢惡化腹膜炎ヲ倂發シ二十八日午前七時四十七分新京官邸ニ於テ遂ニ薨去セラル 翌二十九日新京ニ於テ吿別式ヲ行ヒ、靈柩ハ三十日軍艦平戶ニ依リ大連發八月一日下關著、八月三日午前八時三十分東京驛ニ著シ直ニ自宅ニ歸還セラレタリ 葬儀ハ同月七日日比谷公園臨時葬場ニ於テ營マレ…」</ref>。翌29日新京で[[告別式]]が行われ、棺は防護巡洋艦[[平戸 (防護巡洋艦)|平戸]]に載せられて30日に[[大連]]を出発<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070338000|昭和8年 海軍公報 下巻:7月(3)}} 画像11「◯艦船所在【航海中】…平戶(三十日大連發—下關へ)</ref>、8月1日に[[下関]]に到着した<ref name=外務省報/>。3日に[[東京駅]]に到着し、7日に[[日比谷公園]]で葬儀が営まれた<ref name=外務省報/>。薨去に際し、7月27日付で正二位[[勲一等旭日桐花大綬章]]<ref name=S8July29>[{{NDLDC|2958371/16}} 昭和8年7月29日官報第1973号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ16] 「授爵、敍任及辭令 昭和八年七月二十七日 從二位勲一等功二級男爵 武藤信義 敍正二位 昭和八年七月二十七日 正二位勲一等功二級男爵 武藤信義 授旭日桐花大綬章」</ref>・功一級金鵄勲章が授与された。またこの際、男爵位の授爵を打診された<ref>[{{NDLDC|2958371/16}} 昭和8年7月29日官報第1973号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ16] 「授爵、敍任及辭令 昭和八年七月二十七日 從二位勲一等功二級 武藤信義 依勲功特授男爵」</ref>ものの、家族が辞退した事によって8月6日に改めて授爵した。[[昭和天皇]]から[[御沙汰書]]を賜る<ref group="注釈">「至誠ヲ寬厚ニ藏シ果斷ヲ沈毅ニ發ス乃チ參議ノ官ニ補セラレテ籌ヲ帷幄ニ運ラシ遂ニ元帥ノ府ニ列シテ務ニ樞機ニ服ス持節命ヲ銜ミテ文武ノ大任ヲ全クシ善隣誼ヲ敦クシテ朝野ノ重望ニ副ヘリ遽ニ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘム宜シク使ヲ遣ハシ賻ヲ賜ヒ以テ弔慰スヘシ」[{{NDLDC|2958453/5}} 昭和8年8月8日官報第1981号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5]より</ref>。墓所は[[東京都]][[文京区]]・[[護国寺]]墓地。
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* 陸軍士官学校候補生第3期の同期には、[[朝久野勘十郎]][[中将]]・[[大野豊四]]中将や、[[長谷川好道]]元帥の嗣子[[長谷川猪三郎]][[少将]]らがいる。
* [[ロシア語]]が堪能だった武藤は、[[日露戦争]]開戦前に[[ウラジオストク]][[偵察]]に赴き、開戦時は[[陸軍少佐]]・[[近衛師団]][[参謀]]として出征する。[[鴨緑江]]渡河にあたっては、朝鮮服を着用して現地の子供二人を借りるなどして敵地を偵察し、その情報に基づいて渡河計画が立てられた。
* 人格者で知られた武藤は、軍人としての地位も極めたものの、元帥の条件は満たしていないとの声もあった。武藤の元帥推薦に動いたのは[[荒木貞夫]][[陸軍大臣]]であったという。昭和8年(1933年)に65歳に達したが、この年齢は陸軍大将の定年で同時ある65歳達して[[予備役]]編入となる筈であった。そ(実際には満65歳に達することなく没している)武藤背景元帥推薦動いたのは、[[陸軍大臣]][[荒木貞夫]]であったという。武藤以外に関東軍司令官の適任者がいない事やことに加えて、武藤・荒木が属する反長州閥(武藤は陸軍の佐賀閥の中心であった<ref>{{Cite web|title=武藤信義(むとう のぶよし)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E4%BF%A1%E7%BE%A9-1114426|website=コトバンク|accessdate=2020-05-23|publisher=}}</ref>)の弱体怖れたため懸念してのことであるといわれる。なお、下士官出身で元帥号を賜ったのは武藤のみである。
* [[鈴木荘六]]の後任として参謀総長職を打診されたものの、辞退して後輩の[[金谷範三]]に譲ったされる。
* 関東軍司令官・特命全権大使・関東長官を兼務した武藤は、満州における軍事・行政・外交を掌握して「これほど権力を掴んだ者は[[明治維新]]以来いない」と評されたという。
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==