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=== 反米左翼 ===
後藤は1902年の視察以来アメリカの台頭を強く懸念するようになり、日本・中国・ヨーロッパのユーラシア大陸が連携して対抗するべきだと考えていた<ref name=":0">{{Cite web|title=戦史研究年報 第6号|url=http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/200303.html|website=www.nids.mod.go.jp|accessdate=2020-05-23|publisher=防衛省[[防衛研究所]]|work=第1次世界大戦の日本への衝撃|author=庄司潤一郎|year=2003}}</ref>。
{{Harvtxt|駄場|2007|pp=261-266}}は、戦間期の日本において最も有力な[[反米]]親ソの政治家だった後藤新平<ref>後藤新平は、その最後の訪ソで1928年1月7日にスターリンと会見した際、スターリンに対して「日本ニハ未ダ英米政策ノ追従者アリ。然レドモ日本ハ既ニ独立ノ対外政策ヲ確立スル必要ニ迫ラレツヽアリテ、ソノタメニハ露国トノ握手ヲ必要トシツヽアルナリ」と述べている(鶴見祐輔『後藤新平 第四巻』勁草書房復刻版、1967年、865頁)。</ref>は、下に見るように、親族に多くの著名な[[左翼]]活動家を持つ反米左翼の庇護者であり、その影響力は後藤の死後、現在まで続いており、そのため、米ソ対立の[[冷戦]][[イデオロギー]]の下、親ソ派であるか否かが、その人物に対する優劣・善悪の判断と直結しがちであった戦後日本の学界において、後藤を実績以上に高く評価する方向へ学界世論が導かれたのではないか、としている。また同書では、このことと、後藤直系官僚から、[[岩永裕吉]]([[同盟通信社]]社長)、[[下村宏]]([[朝日新聞社]]副社長)、[[岡實]]([[毎日新聞社|大阪毎日新聞社]]会長)、[[正力松太郎]]([[読売新聞社]]社長)、[[前田多門]](東京朝日新聞社論説委員)が中央マスメディア企業の幹部に転じ、また後藤の盟友[[杉山茂丸]]の[[玄洋社]]における後輩[[緒方竹虎]]が朝日新聞社[[主筆]]として社長をしのぐ実力を持ったことにより、後藤系の勢力がマスメディア業界に牢固たる地盤を築いたことが相俟って、戦後の言論界で、後藤が過大評価される原因になったのではないか、としている。また、日本で左翼というと「反[[皇室]]」というイメージを抱かれがちであるが、下の[[鶴見和子]]と[[上皇后美智子|美智子皇后]]、[[鶴見良行]]と[[秋篠宮文仁親王]]の関係に見られるように、後藤新平に由来する反米左翼勢力は、[[皇族]]と太いパイプを持っている。
 
{{Harvtxt|駄場|2007|pp=261-266}}は、戦間期の日本において最も有力な[[反米]]親ソの政治家だった後藤新平{{refnest|group=注|ロシア革命直後は、アメリカへの対抗を目的として、[[シベリア出兵]]積極論者であった<ref name=":0" />。}}<ref group="注">後藤新平は、その最後の訪ソで1928年1月7日にスターリンと会見した際、スターリンに対して「日本ニハ未ダ英米政策ノ追従者アリ。然レドモ日本ハ既ニ独立ノ対外政策ヲ確立スル必要ニ迫ラレツヽアリテ、ソノタメニハ露国トノ握手ヲ必要トシツヽアルナリ」と述べている(鶴見祐輔『後藤新平 第四巻』勁草書房復刻版、1967年、865頁)。</ref>は、下に見るように、親族に多くの著名な[[左翼]]活動家を持つ反米左翼の庇護者であり、その影響力は後藤の死後、現在まで続いており、そのため、米ソ対立の[[冷戦]][[イデオロギー]]の下、親ソ派であるか否かが、その人物に対する優劣・善悪の判断と直結しがちであった戦後日本の学界において、後藤を実績以上に高く評価する方向へ学界世論が導かれたのではないか、としている。また同書では、このことと、後藤直系官僚から、[[岩永裕吉]]([[同盟通信社]]社長)、[[下村宏]]([[朝日新聞社]]副社長)、[[岡實]]([[毎日新聞社|大阪毎日新聞社]]会長)、[[正力松太郎]]([[読売新聞社]]社長)、[[前田多門]](東京朝日新聞社論説委員)が中央マスメディア企業の幹部に転じ、また後藤の盟友[[杉山茂丸]]の[[玄洋社]]における後輩[[緒方竹虎]]が朝日新聞社[[主筆]]として社長をしのぐ実力を持ったことにより、後藤系の勢力がマスメディア業界に牢固たる地盤を築いたことが相俟って、戦後の言論界で、後藤が過大評価される原因になったのではないか、としている。また、日本で左翼というと「反[[皇室]]」というイメージを抱かれがちであるが、下の[[鶴見和子]]と[[上皇后美智子|美智子皇后]]、[[鶴見良行]]と[[秋篠宮文仁親王]]の関係に見られるように、後藤新平に由来する反米左翼勢力は、[[皇族]]と太いパイプを持っている。
 
また、日本で左翼というと「反[[皇室]]」というイメージを抱かれがちであるが、下の[[鶴見和子]]と[[上皇后美智子|美智子皇后]]、[[鶴見良行]]と[[秋篠宮文仁親王]]の関係に見られるように、後藤新平に由来する反米左翼勢力は、[[皇族]]と太いパイプを持っている。
 
; 佐野学
: 獄中転向で有名な[[日本共産党]]中央委員長[[佐野学]]は、後藤新平の女婿佐野彪太の弟で、[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]、大学院で学び、[[日本勧業銀行]]に勤めた後、後藤の伝手で[[南満州鉄道|満鉄]][[東亜経済調査局]][[嘱託社員]]となり、さらに[[早稲田大学]][[商学部]]講師となった。佐野学は[[1922年]]7月に日本共産党([[第一次共産党 (日本)|第一次共産党]])に入党し、翌年2月の党大会(市川大会)で執行委員・国際幹事に選出された。そして[[アドリフ・ヨッフェ|ヨッフェ]]来日中の同年5月末、[[第一次共産党事件]]([[6月5日]])による検挙を逃れて[[ソビエト連邦|ソ連]]に亡命したが、その際、後藤は、佐野学の亡命に関する情報をヨッフェ経由でソ連に流し、亡命を援助した<ref>駄場裕司「日本海軍の北樺太油田利権獲得工作」(海軍史研究会編『日本海軍史の研究』吉川弘文館、2014年)59-60頁、黒川創『鶴見俊輔伝』(新潮社、2018年)25頁。</ref>。佐野学が第一次共産党事件の検挙を免れたことについては、当時から、後藤が援助したのではないかと、[[立憲政友会|政友会]]が議会で[[第2次山本内閣]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]の後藤を追及していた<ref>駄場『後藤新平をめぐる権力構造の研究』208-209頁。</ref>。佐野学は[[1925年]]7月に帰国して共産党を再建(第二次共産党)。1925年1月の日ソ基本条約調印によりソ連[[大使館]]が開設され、そこに[[商務官]]の肩書きで派遣されていた[[コミンテルン]]代表の[[カール・ヤンソン]]から活動資金を得て、『[[無産者新聞]]』の[[主筆]]を務めた。[[1926年]]3月、第一次共産党事件で[[禁錮]]10ヶ月の判決を受け、同年末まで下獄した佐野学は、[[1927年]]12月に共産党中央委員長に就任、労働運動出身の[[鍋山貞親]]とともに党を指導した。さらに佐野学は、[[1928年]]の[[三・一五事件]]でも、その前日に日本を発って訪ソして一斉検挙を逃れ<ref group="注">佐野学が2度の共産党一斉検挙をタイミングよく免れていることから、佐野学を後藤新平・公安警察が共産党に送り込んだスパイであるとする者もあるが、そう断定する証拠は示されていない(近現代史研究会編『実録 野坂参三 共産主義運動“スパイ秘史”』マルジュ社、1997年)。</ref>、コミンテルン第6回大会に日本共産党首席代表として出席。後藤最後の訪ソ時にもモスクワにおり、その半年後にコミンテルン常任執行委員に選任された。この頃のことについて佐野学は、ヨッフェの「自殺のまへ、ヨッフェの困つてゐる最中に、[[グリゴリー・ジノヴィエフ|ジノヴィエフ]]は私をよびつけてヨッフェの滞日中の生活態度を根ほり葉ほり聞いた。私はヨッフェに同情してゐたので知らないの一点ばりをやつた」、また[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]に面会し、「[[27年テーゼ|二七年テーゼ]]を[[プラウダ]]に出してくれるやうに頼んだが、後藤新平が今モスコーに来てゐるから見合せておく」と言われたと回想している<ref>佐野学「共産主義指導者の回想」(佐野学著作集刊行会編・発行『佐野学著作集 第一巻』1957年)999-1000頁。</ref>。しかし後藤新平死去直後の[[1929年]]6月に中国・[[上海市|上海]]で検挙され、[[1932年]]10月に[[東京地方裁判所]]で[[治安維持法]]違反により[[無期懲役]]の判決を受けた。翌[[1933年]]6月に鍋山貞親とともに共同転向声明を発表した佐野学は、[[1934年]]5月の東京[[控訴院]]判決で懲役15年に減刑されて控訴審判決が確定し、[[1943年]]10月に出獄した。
; 佐野碩
:「[[インターナショナル (歌)|インターナショナル]]」の訳詞者の一人として知られる共産党系の演劇人、[[佐野碩]]は佐野彪太の長男で、後藤新平の初孫であるため可愛がられ、後藤は佐野碩のことを、「自分の孫が[[マルクス主義]]者として大正時代、女装して逃げ回っていたんですからね、おもしろいじゃないですか。そういうことをとても喜んでいた」と[[鶴見俊輔]]が証言している<ref>鶴見俊輔「〈コメント〉祖父・後藤新平について」(『環』第21号、2005年4月)265頁。</ref>。後藤新平の生前、稽古場として佐野碩らの左翼演劇活動の拠点となったのは、[[小石川]]駕籠町にある佐野彪太邸で、彪太は息子の活動に資金援助も行った<ref>千田是也『もうひとつの新劇史――千田是也自伝』(筑摩書房、1975年)121-124頁、藤田富士男『ビバ! エル・テアトロ! 炎の演出家 佐野碩の生涯』(オリジン出版センター、1989年)70-75頁、岡村春彦『自由人佐野碩の生涯』(岩波書店、2009年)32-35頁、46-47頁、51頁。</ref>。しかし後藤新平が死去した翌1930年5月、佐野碩は「[[共産党シンパ事件]]」で[[治安維持法]]違反容疑により逮捕された。碩の父彪太と母静子(後藤新平の長女)は、まだ没して間もない後藤新平の息のかかった政界・検察関係者に裏工作を行い、「直接にも間接にも日本共産党を支持する行為あるいはこれに類する行動を一切しない」と誓約して、他の逮捕者とは別に、一人、起訴猶予で保釈された<ref>藤田『ビバ! エル・テアトロ!』117-118頁、岡村『自由人佐野碩の生涯』88-89頁。</ref>。そして[[1931年]]6月からモスクワで始まる[[国際労働者演劇同盟]](IATB)第1回拡大評議員総会への出席を求める[[ドイツ共産党]]員の演劇人[[千田是也]]からの手紙を機に、同年5月に出国し、以後、二度と日本に戻らなかった。
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:「[[講座派]]三太郎」の一人である[[平野義太郎]]は、後藤新平の岳父[[安場保和]]の孫娘で後藤にとっては義理の姪にあたる嘉智子の夫で、平野は後藤の「晩年屡々鍼灸する機会をもつた」と述べている<ref>平野義太郎『民族政治学の理論』(日本評論社、1943年)81頁。</ref>。平野は[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]時代、後藤の女婿[[鶴見祐輔]]の弟で外交官となる[[鶴見憲]]([[鶴見良行]]の父)と同期で、弁論部に入り、鶴見憲と一緒に、鶴見祐輔が自宅で開いた「火曜会」に出席した。平野に嘉智子との結婚を勧めたのは鶴見憲だった<ref>鶴見憲「一高時代の平野君の思い出」(平野義太郎 人と学問編集委員会編『平野義太郎 人と学問』大月書店、1981年)20-22頁。</ref>。[[1921年]]3月に東京帝国大学法学部を卒業し、同年5月に同学部助手、[[1923年]]6月に同学部助教授となった平野は、[[1927年]]から[[フランクフルト大学]]社会研究所に留学し、ソ連に傾倒する[[ヘンリク・グロスマン]]に師事した。しかし後藤新平が死去した翌[[1930年]]1月に帰国した平野は、佐野碩と同様に、同年5月の「共産党シンパ事件」で検挙され、7月に依願免官となった。平野は、鶴見祐輔の下で後藤新平の正伝『後藤新平』全4巻(後藤新平伯伝記編纂会、1937-1938年)編纂作業に参加し、鶴見祐輔の[[太平洋協会]]では企画部長、弘報部長などを務め、敗戦で同協会が解散する際には、元調査部長[[山田文雄]]と協会の資産を二分した<ref>陸井三郎「戦中・戦争直後の平野先生 一九四三-四六年」(『平野義太郎』)82頁、86頁。</ref>。これが、鶴見和子・俊輔姉弟らが雑誌『[[思想の科学]]』を刊行する機構的・財政的基盤となった<ref>安田常雄「『思想の科学』・『芽』解題」(安田常雄・天野正子編『復刻版『思想の科学』・『芽』別巻 戦後「啓蒙」思想の遺したもの』久山社、1992年)215頁。</ref>。平野は1958年、後に鶴見俊輔らが「[[ベトナムに平和を!市民連合]]」(ベ平連)事務局長に起用した、当時、共産党専従活動家の[[吉川勇一]]が結婚する際の仲人を務めている<ref>新村猛「平野義太郎さんを偲ぶ」(『平野義太郎』)77頁。</ref>。
; 鶴見和子
:後藤新平の女婿鶴見祐輔の長女である[[社会学者]]の[[鶴見和子]]は、戦後、[[武田清子]]、[[武谷三男]]、[[都留重人]]、鶴見俊輔、[[丸山真男]]、[[渡辺慧]]らが[[思想の科学研究会]]を結成する中心人物となり<ref>安田「『思想の科学』・『芽』解題」215頁、[http://www.iwanami.co.jp/shiso/1021/kotoba.html 鶴見俊輔「思想の言葉 態度と知識――『思想の科学』小史」(『思想』2009年第5号)]。</ref>、共産党に入党して1950年ごろまで党員だったが<ref>鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社、2004年)291-292頁。</ref>、その後、親中派に転じた<ref group="注">鶴見和子は「私は後藤新平さんから受け継いだのは、反面教師としては権力志向は嫌いというのですが、もう一つは中国への関心ですね。後藤新平さんは、中国を安定させるためにロシアと結ぼうとしたのです」と、自らの親中的スタンスが後藤新平譲りであると述べている(鶴見和子「祖父・後藤新平」『コレクション 鶴見和子曼荼羅 Ⅶ 華の巻――わが生き相』藤原書店、1998年、33頁)。</ref>。そして筋金入りの反米主義者で[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]シンパの[[武者小路公秀]]を所長として[[上智大学]]に国際関係研究所が設立される際、武者小路の招きを受けて、[[1969年]]4月に[[成蹊大学]][[文学部]]助教授から上智大学[[外国語学部]]教授・国際関係研究所員に転じ<ref>「ゼミでしたこと 出会った人々――鶴見先生インタヴュー――」(『コレクション 鶴見和子曼荼羅 Ⅸ 環の巻――内発的発展論によるパラダイム転換』藤原書店、1999年)321-322頁。</ref>、[[1989年]]3月の定年までその職にあった。同年6月の[[六四天安門事件|天安門事件]]における[[中国共産党]]政府・[[中国人民解放軍|人民解放軍]]の[[民主化]]運動武力弾圧を西側諸国が強く非難し、日本政府も対中借款停止などの外交制裁を実施して日中関係が悪化すると、鶴見和子は同年8月末から9月にかけていち早く、[[江蘇省]]小城鎮研究会の招きで、[[宇野重昭]]、[[石川照子]]とともに訪中している<ref>能澤壽彦作成・鶴見和子校閲「『鶴見和子研究』年譜」(『鶴見和子曼荼羅 Ⅸ』)410頁。</ref>。また[[1949年]]に新制東京大学の第1期生として入学した吉川勇一は、[[世田谷区]][[成城]]の自宅に[[柳田國男]]が創設した「民俗学研究所」に通っていたが<ref>[http://www.jca.apc.org/~yyoffice/ryakurekiright.htm#1949 吉川勇一公式サイト内「略歴」1949年]。</ref>、その柳田邸の真向かいに住んでいたのが鶴見祐輔・和子父子で、鶴見和子もしばしば柳田邸を訪ね、もてなしを受けていた<ref>能澤作成・鶴見校閲「『鶴見和子研究』年譜」374頁。</ref>。なお、[[2007年]][[7月28日]]に[[新宿]][[中村屋]]本店で催された鶴見和子の[[一周忌]]の集いには、[[上皇后美智子|美智子皇后]]も臨席した<ref>内山章子「一周忌までのご報告」(『環』第31号、2007年11月)69頁。</ref>。鶴見和子本人も生前、[[上皇明仁|明仁天皇]]と美智子皇后への深い尊敬の念を語っていた<ref>武者小路公秀・鶴見和子『複数の東洋/複数の西洋 世界の知を結ぶ』(藤原書店、2004年)193頁。</ref>。美智子皇后はその後も、鶴見和子を偲ぶ「山百合忌」に出席している<ref>[http://www.asahi.com/articles/TKY201310250153.html 朝日新聞デジタル:「水俣の苦しみ今も」石牟礼さん、皇后さまに手紙 - 社会]。</ref>。鶴見俊輔によれば、「美智子皇后は姉の和子に対して、彼女の学友だった女官を通して『宮中まで来てほしい』とお呼びになったことがありました。そのとき、『あなたがこのあいだの講演で慰安婦の問題を取り上げてくださって、とてもありがたかった』とおっしゃった。姉が倒れて宇治の施設に入ったときも、『京都に行くから来てくれないか』と連絡が来た。当日は妹に託して、車椅子で姉を御所に上げました。天皇、皇后と姉と三人だけでお話をしたわけです。それだけ今上天皇、皇后は姉に共感をもっておられたんですね」とのことである<ref>鶴見俊輔・上坂冬子「“爽やか”だった大東亜戦争」(『Voice』2008年9月号)163頁。</ref>。「美智子皇后の相談役」として知られる[[精神科医]][[神谷美恵子]]は、鶴見祐輔とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた後藤新平側近の一人として数えられる前田多門の長女であり、鶴見俊輔は「神谷美恵子は、聖者である」としている<ref>鶴見俊輔「神谷美恵子管見」(みすず書房編集部編『神谷美恵子の世界』みすず書房、2004年)86頁。</ref>。神谷美恵子の兄の[[フランス文学者]][[前田陽一]]は、[[皇太子]]時代の今上天皇のフランス語の師匠であり、共産党前中央委員会議長[[不破哲三]]のフランス語の師匠でもあった<ref>不破哲三「一高記念祭の思い出など」(「前田陽一 その人その文」編集刊行委員会編・発行『前田陽一 その人その文』1989年)237-240頁。</ref>。そして、やはり「新渡戸四天王」の一人である[[田島道治]]は、戦後、第2代[[宮内府]]長官、初代[[宮内庁]]長官を歴任し、同じく新渡戸門下の後輩である[[三谷隆信]][[侍従長]]とコンビを組んで宮中改革に尽力した。田島は[[宇佐美毅 (宮内庁長官)|宇佐美毅]]に宮内庁長官の座を譲ってからも宮中への影響力を行使し、東宮御教育常時参与の[[小泉信三]]とともに、「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん」とする[[香淳皇后]]らの反対を押し切って、美智子[[皇太子妃]]を実現するのに大きく貢献した<ref>加藤恭子『田島道治――昭和に「奉公」した生涯』(TBSブリタニカ、2002年)388-394頁。</ref>。
; 鶴見俊輔
: 鶴見和子の弟である[[哲学者]]の[[鶴見俊輔]]は、[[安保闘争#60年安保|60年安保]]時には[[政治学者]]の[[高畠通敏]]とともに「[[声なき声の会]]」を組織して[[第2次岸内閣 (改造)|岸内閣]]による[[日米安全保障条約]]改定に反対<ref>日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)によれば、「声なき声の会」のデモの指揮は日ソ協会が行っていた(「回想・日ソ協会のあゆみ」編纂委員会編『回想・日ソ協会のあゆみ』日ソ協会、1974年、96頁)。</ref>。[[ベトナム戦争]]期には高畠らとともに「声なき声の会」を母体として「[[ベトナムに平和を!市民連合]]」(ベ平連)を結成し、代表に作家の[[小田実]]を迎え、事務局長には共産党から除名処分を受けていた吉川勇一を据えて、自らもベ平連の中心的な人物となり、[[ソビエト社会主義共和国連邦閣僚評議会付属国家保安委員会|KGB]]の支援も得て<ref>Koenker, Diane P., and Ronald D. Bachman (ed.), ''Revelations from the Russian archives : Documents in English Translation'', Washington, D.C. : Library of Congress, 1997, pp699-700.</ref>、活発な反米運動を展開した。その際、鶴見俊輔は、杉山茂丸の孫の[[杉山龍丸]]を「玄洋社国際部長」の肩書きでベ平連に取り込んだ<ref>小田実ほか「呼びかけ」1965年4月15日(ベトナムに平和を!市民連合編『資料・「ベ平連」運動 上巻』河出書房新社、1974年)5頁。ただし吉川勇一によると、「杉山さんは、ベ平連の後半では、ベ平連への批判的態度をもつようになったようだ」という。[http://www.jca.apc.org/beheiren/hihanntekibunken-SugiyamaTatsumaru.htm ベ平連への批判的文献]</ref>。
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==