「後藤新平」の版間の差分

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:後藤新平の女婿鶴見祐輔の長女である[[社会学者]]の[[鶴見和子]]は、戦後、[[武田清子]]、[[武谷三男]]、[[都留重人]]、鶴見俊輔、[[丸山真男]]、[[渡辺慧]]らが[[思想の科学研究会]]を結成する中心人物となり<ref>安田「『思想の科学』・『芽』解題」215頁、[http://www.iwanami.co.jp/shiso/1021/kotoba.html 鶴見俊輔「思想の言葉 態度と知識――『思想の科学』小史」(『思想』2009年第5号)]。</ref>、共産党に入党して1950年ごろまで党員だったが<ref>鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社、2004年)291-292頁。</ref>、その後、親中派に転じた<ref group="注">鶴見和子は「私は後藤新平さんから受け継いだのは、反面教師としては権力志向は嫌いというのですが、もう一つは中国への関心ですね。後藤新平さんは、中国を安定させるためにロシアと結ぼうとしたのです」と、自らの親中的スタンスが後藤新平譲りであると述べている(鶴見和子「祖父・後藤新平」『コレクション 鶴見和子曼荼羅 Ⅶ 華の巻――わが生き相』藤原書店、1998年、33頁)。</ref>。そして筋金入りの反米主義者で[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]シンパの[[武者小路公秀]]を所長として[[上智大学]]に国際関係研究所が設立される際、武者小路の招きを受けて、[[1969年]]4月に[[成蹊大学]][[文学部]]助教授から上智大学[[外国語学部]]教授・国際関係研究所員に転じ<ref>「ゼミでしたこと 出会った人々――鶴見先生インタヴュー――」(『コレクション 鶴見和子曼荼羅 Ⅸ 環の巻――内発的発展論によるパラダイム転換』藤原書店、1999年)321-322頁。</ref>、[[1989年]]3月の定年までその職にあった。同年6月の[[六四天安門事件|天安門事件]]における[[中国共産党]]政府・[[中国人民解放軍|人民解放軍]]の[[民主化]]運動武力弾圧を西側諸国が強く非難し、日本政府も対中借款停止などの外交制裁を実施して日中関係が悪化すると、鶴見和子は同年8月末から9月にかけていち早く、[[江蘇省]]小城鎮研究会の招きで、[[宇野重昭]]、[[石川照子]]とともに訪中している<ref>能澤壽彦作成・鶴見和子校閲「『鶴見和子研究』年譜」(『鶴見和子曼荼羅 Ⅸ』)410頁。</ref>。また[[1949年]]に新制東京大学の第1期生として入学した吉川勇一は、[[世田谷区]][[成城]]の自宅に[[柳田國男]]が創設した「民俗学研究所」に通っていたが<ref>[http://www.jca.apc.org/~yyoffice/ryakurekiright.htm#1949 吉川勇一公式サイト内「略歴」1949年]。</ref>、その柳田邸の真向かいに住んでいたのが鶴見祐輔・和子父子で、鶴見和子もしばしば柳田邸を訪ね、もてなしを受けていた<ref>能澤作成・鶴見校閲「『鶴見和子研究』年譜」374頁。</ref>。なお、[[2007年]][[7月28日]]に[[新宿]][[中村屋]]本店で催された鶴見和子の[[一周忌]]の集いには、[[上皇后美智子|美智子皇后]]も臨席した<ref>内山章子「一周忌までのご報告」(『環』第31号、2007年11月)69頁。</ref>。鶴見和子本人も生前、[[上皇明仁|明仁天皇]]と美智子皇后への深い尊敬の念を語っていた<ref>武者小路公秀・鶴見和子『複数の東洋/複数の西洋 世界の知を結ぶ』(藤原書店、2004年)193頁。</ref>。美智子皇后はその後も、鶴見和子を偲ぶ「山百合忌」に出席している<ref>[http://www.asahi.com/articles/TKY201310250153.html 朝日新聞デジタル:「水俣の苦しみ今も」石牟礼さん、皇后さまに手紙 - 社会]。</ref>。鶴見俊輔によれば、「美智子皇后は姉の和子に対して、彼女の学友だった女官を通して『宮中まで来てほしい』とお呼びになったことがありました。そのとき、『あなたがこのあいだの講演で慰安婦の問題を取り上げてくださって、とてもありがたかった』とおっしゃった。姉が倒れて宇治の施設に入ったときも、『京都に行くから来てくれないか』と連絡が来た。当日は妹に託して、車椅子で姉を御所に上げました。天皇、皇后と姉と三人だけでお話をしたわけです。それだけ今上天皇、皇后は姉に共感をもっておられたんですね」とのことである<ref>鶴見俊輔・上坂冬子「“爽やか”だった大東亜戦争」(『Voice』2008年9月号)163頁。</ref>。「美智子皇后の相談役」として知られる[[精神科医]][[神谷美恵子]]は、鶴見祐輔とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた後藤新平側近の一人として数えられる前田多門の長女であり、鶴見俊輔は「神谷美恵子は、聖者である」としている<ref>鶴見俊輔「神谷美恵子管見」(みすず書房編集部編『神谷美恵子の世界』みすず書房、2004年)86頁。</ref>。神谷美恵子の兄の[[フランス文学者]][[前田陽一]]は、[[皇太子]]時代の今上天皇のフランス語の師匠であり、共産党前中央委員会議長[[不破哲三]]のフランス語の師匠でもあった<ref>不破哲三「一高記念祭の思い出など」(「前田陽一 その人その文」編集刊行委員会編・発行『前田陽一 その人その文』1989年)237-240頁。</ref>。そして、やはり「新渡戸四天王」の一人である[[田島道治]]は、戦後、第2代[[宮内府]]長官、初代[[宮内庁]]長官を歴任し、同じく新渡戸門下の後輩である[[三谷隆信]][[侍従長]]とコンビを組んで宮中改革に尽力した。田島は[[宇佐美毅 (宮内庁長官)|宇佐美毅]]に宮内庁長官の座を譲ってからも宮中への影響力を行使し、東宮御教育常時参与の[[小泉信三]]とともに、「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん」とする[[香淳皇后]]らの反対を押し切って、美智子[[皇太子妃]]を実現するのに大きく貢献した<ref>加藤恭子『田島道治――昭和に「奉公」した生涯』(TBSブリタニカ、2002年)388-394頁。</ref>。
; 鶴見俊輔
: 鶴見和子の弟である[[哲学者]]の[[鶴見俊輔]]は、[[安保闘争#60年安保|60年安保]]時には[[政治学者]]の[[高畠通敏]]とともに「[[声なき声の会]]」を組織して[[第2次岸内閣 (改造)|岸内閣]]による[[日米安全保障条約]]改定に反対<ref group="注">日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)によれば、「声なき声の会」のデモの指揮は日ソ協会が行っていた(「回想・日ソ協会のあゆみ」編纂委員会編『回想・日ソ協会のあゆみ』日ソ協会、1974年、96頁)。</ref>。[[ベトナム戦争]]期には高畠らとともに「声なき声の会」を母体として「[[ベトナムに平和を!市民連合]]」(ベ平連)を結成し、代表に作家の[[小田実]]を迎え、事務局長には共産党から除名処分を受けていた吉川勇一を据えて、自らもベ平連の中心的な人物となり、[[ソビエト社会主義共和国連邦閣僚評議会付属国家保安委員会|KGB]]の支援も得て<ref>Koenker, Diane P., and Ronald D. Bachman (ed.), ''Revelations from the Russian archives : Documents in English Translation'', Washington, D.C. : Library of Congress, 1997, pp699-700.</ref>、活発な反米運動を展開した。その際、鶴見俊輔は、杉山茂丸の孫の[[杉山龍丸]]を「玄洋社国際部長」の肩書きでベ平連に取り込んだ<ref group="注">小田実ほか「呼びかけ」1965年4月15日(ベトナムに平和を!市民連合編『資料・「ベ平連」運動 上巻』河出書房新社、1974年)5頁。ただし吉川勇一によると、「杉山さんは、ベ平連の後半では、ベ平連への批判的態度をもつようになったようだ」という。[http://www.jca.apc.org/beheiren/hihanntekibunken-SugiyamaTatsumaru.htm ベ平連への批判的文献]</ref>。
; 鶴見良行
: [[アジア]]学者・[[人類学者]]の[[鶴見良行]]は、鶴見祐輔の弟の外交官鶴見憲の息子で、鶴見和子・俊輔姉弟の従弟である。日本の知的風土にある親ソ的傾向を是正して日米関係を改善するために[[ロックフェラー財団]]などが資金提供して設立された[[公益財団法人]][[国際文化会館]]<ref>松本重治『聞書・わが心の自叙伝』(講談社、1992年)184頁。</ref>の企画部長であるにも関わらず、鶴見良行がベ平連の「英語使い」<ref>小田実「ヨシユキさん《a concerned citizen》」(『鶴見良行著作集月報』第10号、2002年6月)1-3頁。</ref>、「外務省」<ref>武藤一羊「仮説を生産するヴィジョナリー」(『鶴見良行著作集月報』第10号)4頁。</ref>として反米運動の有力活動家になったことに対し、左右両陣営から文化会館への批判が相次いだが、鶴見良行はベトナム戦争反対の世論をバックに突っ張った。これに窮した国際文化会館理事長の[[松本重治]]は、鶴見良行を企画部長から外して嘱託とする代わりに、満60歳になるまで机と手当を与えた<ref>加固寛子「〈解説〉人間・松本重治について」(『聞書・わが心の自叙伝』)215-216頁。</ref>。[[元老]][[松方正義]]の孫である松本重治は[[高木八尺]](松本重治の親戚)門下で、[[台湾総督府]]時代以来、後藤新平の子分だった[[新渡戸稲造]]の孫弟子であり、やはり松本の親戚で「新渡戸四天王」の後藤新平側近の一人である岩永裕吉の伝手で同盟通信社の前身である[[新聞聯合社]]に入社し、聯合・同盟の[[上海]]支局長を経て同盟通信社初代編集局長となり、敗戦時には同社常務理事を務めていた後藤系マスメディア人だった。[[秋篠宮文仁親王]]は鶴見良行のファンで鶴見良行に直接教えを受け、その強い影響を受けた<ref>江森敬治『秋篠宮さま』(毎日新聞社、1998年)27-34頁。</ref>。