「邪馬台国」の版間の差分

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{{See also|邪馬台国畿内説|邪馬台国九州説}}
厳密に「魏志倭人伝」の行程どおりに単純に距離と方角を足していくと邪馬台国は[[太平洋]]の真ん中に行きつく<ref>岡本健一『邪馬台国論争』(講談社選書メチエ、1995年)p89に引く岡田英弘の説</ref>。ゆえに、白石も宣長もさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。江戸時代から現在まで学界の主流は「'''[[九州]]説'''」([[白鳥庫吉]]ら)と「'''[[畿内]]説'''」([[内藤湖南]]ら)の二説に大きく分かれている。ただし九州説には、邪馬台国が“畿内に移動してヤマト政権となった”とする説(「[[東遷説]]」)と、邪馬台国の勢力は“畿内で成立したヤマト政権に滅ぼされた”とする説([[若井敏明]]の2010年の著書「邪馬台国の滅亡」など)がある。
 
==== 魏志倭人伝と北史倭国伝の記述====
{| class="wikitable"
! style="width:34%" | 魏志倭人伝(原文)!! style="width:33%" | 訳注<ref >『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) [[石原道博]]編訳 岩波文庫』P39-54、P65-73魏志と隋書の訳注を参考とした。</ref> !! style="width:33%" | 北史倭国伝(原文)<ref >[https://zh.wikisource.org/wiki/北史/卷094?uselang=ja#倭 北史倭国伝原文]</ref>
|-
| 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國<ref >魏志韓伝には『韓在帶方之南,東西以海爲限,南與倭接,方可四千里。』と記述されており、韓国は一辺が'''四千里の方形'''である。</ref>乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
| 郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を経て、乍(あるい)は南し、乍(あるい)は東し、その北岸[[狗邪韓国]]に到る七千餘里。
| 計從帶方至倭國、循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里。
|-
| 始度一海、千餘里至對海國。
| 始めて一海を度る千余里。[[対海国|対馬国]]に至る。
| 始度一海。又南千餘里。
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| 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至'''一大國'''。
| また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海という。[[一大国]]に至る。
| 度一海、闊千餘里、名瀚海、至'''一支國'''。
|-
| 又渡一海、千餘里至末盧國。
| また一海を渡る千余里、[[末盧国]]に至る。
| 又度一海千餘里、名末盧國。
|-
| 東南陸行五百里、到伊都國。
| 東南陸行五百里にして[[伊都国]]に到る。
| 又東南陸行五百里、至伊都國。
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| 東南至奴國百里。
| 東南[[奴国]]に至る百里。
| 又東南百里、至奴國。
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| 東行至不彌國百里。
| 東行[[不弥国]]に至る百里。
| 又東行百里、至不彌國。
|-
| 南至投馬國、水行二十日。
| 南、[[投馬国]]に至る水行二十日。
| 又南水行二十日、至投馬國。
|-
| 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
| 南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。
| 又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都。
|-
|
|
|其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。
|-
|自郡至女王國萬二千餘里。
|楽浪郡境および帯方郡を去ること並びに一万二千里。
|去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里。
|}
『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) [[石原道博]]編訳 岩波文庫』P17によれば、『[[三国志]]』と『[[後漢書]]』、『[[宋書]]』と『[[南斉書]]』、『[[晋書]]』『[[梁書]]』と『[[隋書]]』、『[[南史]]』と『[[北史]]』の四グループに考えられるが、その記述内容はお互いに密接な関係を持っている点が特徴と述べられている。[[石原道博]]氏は北史は、隋書や梁書などと同様の記述であるため、新史実なく、資料的価値は低いとしている。『隋書』は『魏略』『魏志』『後漢書』『宋書』『梁書』を参考にしながら、『北史』は『梁書』『隋書』を参考にしながら記述されているとのことである。一方で、北史は公正・詳密な記述で史料的価値が高い、詳密な記述で史料価値が高い、と評価されている<ref >小学館大辞泉「北史」・精選版 日本国語大辞典</ref>。尚、[[隋書]]倭国伝では、「その国境は東西五月行、'''南北は三月行'''にして、各々海に至る」・「古よりいう、楽浪郡境および帯方郡を去ること並びに一万二千里にして、会稽の東にあり」と記述されている<ref >『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 石原道博編訳 岩波文庫』P65</ref>。[[魏志倭人伝]]では、「南、投馬国に至る'''水行二十日'''。」・「南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、'''水行十日陸行一月'''。」<ref >『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 石原道博編訳 岩波文庫』P41</ref>と記述されている。「南北三月行」については「佐渡から土佐までの範囲とする」意見や「日本海から太平洋までの範囲とする」意見などがある。
また、北史倭国伝には魏志倭人伝をほぼ丸写しした行路記事に、『隋書』にある『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』がつけくわえられているという考えがあり、検証・考察が求められる。
;隋書倭国伝<ref >『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 石原道博編訳 岩波文庫』P127-133</ref>
*『其國境、東西五月行、'''南北三月行'''、各至於海。』
*『倭國在百濟、新羅東南、水陸'''三千里'''』
*『去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里。』
邪馬台国は魏志倭人伝に記載のあるように卑弥呼が魏に朝貢した景初3年(239年)から『日本書紀』の晋書起居註に記載があるように壹與が晋に泰始2年(266年)に朝貢したことから、3世紀に存在したことが確かである。畿内説に立てば、3世紀の日本に大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、九州説に立てば九州に存在した邪馬台国から大和政権に政権が移ったことになる。邪馬とは、山と音訳出来る。