「邪馬台国」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
→位置に関する論争: 内容がセクション2.1とセクション6.1と重複するので除去します。諸説の間のバランスをとらなければなりません。 |
|||
195行目:
{{See also|邪馬台国畿内説|邪馬台国九州説}}
厳密に「魏志倭人伝」の行程どおりに単純に距離と方角を足していくと邪馬台国は[[太平洋]]の真ん中に行きつく<ref>岡本健一『邪馬台国論争』(講談社選書メチエ、1995年)p89に引く岡田英弘の説</ref>。ゆえに、白石も宣長もさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。江戸時代から現在まで学界の主流は「'''[[九州]]説'''」([[白鳥庫吉]]ら)と「'''[[畿内]]説'''」([[内藤湖南]]ら)の二説に大きく分かれている。ただし九州説には、邪馬台国が“畿内に移動してヤマト政権となった”とする説(「[[東遷説]]」)と、邪馬台国の勢力は“畿内で成立したヤマト政権に滅ぼされた”とする説([[若井敏明]]の2010年の著書「邪馬台国の滅亡」など)がある。
邪馬台国は魏志倭人伝に記載のあるように卑弥呼が魏に朝貢した景初3年(239年)から『日本書紀』の晋書起居註に記載があるように壹與が晋に泰始2年(266年)に朝貢したことから、3世紀に存在したことが確かである。畿内説に立てば、3世紀の日本に大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、九州説に立てば九州に存在した邪馬台国から大和政権に政権が移ったことになる。邪馬とは、山と音訳出来る。
|