「アンドレイ・グロムイコ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Clear wheat field (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
Clear wheat field (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
51行目:
この間、1956年には党中央委員に選出され、[[1973年]]4月には[[ソ連共産党政治局|党政治局員]]となる。元来ソ連外務省は、ほかのソ連の国家機関同様、ソ連共産党の国際部や社会主義連絡部などの指導を受けて、外交を実施する機関であったが、1970年代からソ連閣僚会議が膨大な官僚を擁して行政府として強大化していったことと軌を一にしたこと、そしてグロムイコの外務大臣の在職が長期化したことに連れて、その政治的権威も増大していった。
[[1975年]]以降ブレジネフの指導力が低下するに連れて、KGB議長の[[ユーリ・アンドロポフ]]、国防相の[[ドミトリー・ウスチノフ]]とともに[[トロイカ体制|トロイカ]]を形成し、ソビエトの政策決定に大きな役割を果たすようになる。[[1982年]]のブレジネフ死後、アンドロポフが後継書記長に選出された。その直後アンドロポフは、グロムイコにブレジネフが生前兼ねていた憲法上の国家元首ポストである最高会議幹部会議長への就任を打診した。しかし、グロムイコはそれを固辞した。替わりに[[1983年]]からは[[:en:First Deputy Chairman of the Council of Ministers (Soviet Union)|閣僚会議第一副議長]](第一副首相)を兼任した。その後[[1984年]]2月のアンドロポフの死去
===ミスター・ニェット===
グロムイコの別名に「ミスター・ニェット」なるものが存在するが、これは[[国際連合安全保障理事会]]のソ連代表や外務大臣時代、国際会議において、西側提出の議案、とくにソ連の不利益となる議案にグロムイコが容赦なく[[拒否権]]を行使したり、反対票を投じていたことから来たものである(ニェット{{lang|ru|нет}}は、[[ロシア語]]で[[英語]]の[[no]](否定)にあたる)。グロムイコは特に[[国際連合安全保障理事会]]ソ連代表時代において、何度も拒否権を行使している。
|