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'''エトルリア王国'''(エトルリアおうこく、{{lang-it|'''Regno d'Etruria'''}})は、[[19世紀]]初頭の[[イタリア]]に存在した[[王国]]である。
== 概説 ==
19世紀初頭の[[イタリア半島]]に存在した国家であり、その建国と滅亡の経緯からしても完全に[[ナポレオン]]の[[フランス帝国]]の衛星国家であり、フランス帝国の間接支配のための傀儡国家であった。[[国王]]には、[[ブルボン朝]]の系譜を継ぐ名門であった[[ブルボン=パルマ家]]の[[ルードヴィコ1世]]を即位させた。
 
== 歴史 ==
[[1801年]][[2月9日]]に締結された[[リュネヴィルの和約]]を受けて、[[トスカーナ大公国]]は[[フランス]]の手に渡り廃止された。同年[[3月21日]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]による[[傀儡国家]]としてエトルリア王国が成立した。[[エトルリア]]とは、トスカーナの古名である。王位には[[ブルボン=パルマ家]]の[[ルドヴィーコ1世 (エトルリア王)|ルドヴィーコ1世]]がついた。ルドヴィーコが死ぬと、子のルドヴィーコ2世こと[[カルロ2世 (パルマ公)|カルロ2世ルドヴィーコ]]が王位を継承した。しかし1807年の[[フォンテーヌブロー条約_(1807年)|フォンテーヌブローの密約]]により[[ポルトガル]]がスペインとフランスによって分割併合されると、ナポレオンはカルロ2世ルドヴィーコをポルトガル北部に新設した傀儡国家[[北ルシタニア王国]]の王とし、エトルリア王国の方は廃止してフランス帝国に併合した。2年後ナポレオンは妹の[[エリザ・ボナパルト|エリザ]]を女大公としてトスカーナ大公国を復活させている。
=== 建国 ===
[[1801年]][[2月9日]]に締結された[[リュネヴィルの和約]]を受けて、[[トスカーナ大公国]]は[[フランス]]の手に渡り廃止された。同年[[3月21日]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]による[[傀儡国家]]としてエトルリア王国が成立した。[[エトルリア]]とは、トスカーナの古名である。王位には[[ブルボン=パルマ家]]の[[ルドヴィーコ1世 (エトルリア王)|ルドヴィーコ1世]]がついた。ルドヴィーコが死ぬと、子のルドヴィーコ2世こと[[カルロ2世 (パルマ公)|カルロ2世ルドヴィーコ]]が王位を継承した。しかし1807年の[[フォンテーヌブロー条約_(1807年)|フォンテーヌブローの密約]]により[[ポルトガル]]がスペインとフランスによって分割併合されると、ナポレオンはカルロ2世ルドヴィーコをポルトガル北部に新設した傀儡国家[[北ルシタニア王国]]の王とし、エトルリア王国の方は廃止してフランス帝国に併合した。2年後ナポレオンは妹の[[エリザ・ボナパルト|エリザ]]を女大公としてトスカーナ大公国を復活させている
=== 解消 ===
しかし1807年の[[フォンテーヌブロー条約_(1807年)|フォンテーヌブローの密約]]により[[ポルトガル]]がスペインとフランスによって分割併合されると、ナポレオンはカルロ2世ルドヴィーコをポルトガル北部に新設した傀儡国家[[北ルシタニア王国]]の王とし、エトルリア王国の方は廃止してフランス帝国に併合した。2年後ナポレオンは妹の[[エリザ・ボナパルト|エリザ]]を女大公としてトスカーナ大公国を復活させている。
 
== 関連項目 ==