「アンドレイ・グロムイコ」の版間の差分

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しかし、皮肉にもゴルバチョフの鉄の歯はグロムイコ自身にも向かった。7月に外務大臣のポストをシェワルナゼに譲り、儀礼的なポストである最高会議幹部会議長(国家元首)に祭り上げられた。これはゴルバチョフが外交の主導権を掌握し、新思考外交を進める上で老齢のグロムイコが障害となったためである。一部の西側ジャーナリストは、グロムイコがゴルバチョフの改革に否定的であると考えていたが、グロムイコは回想録の中でゴルバチョフや[[ペレストロイカ]]の方針について好意的に書いている。
 
[[1988年]]6月に{{仮リンク|ロシア正教会1000年祭|en|1000th anniversary of the Christianization of Rus'|label=ロシア正教会1000年祭}}を[[ロシア正教会|正教会]]とともに主催した後、[[9月30日]]にゴルバチョフに辞意を伝え、同日開催の党中央委員会総会で政治局員を退任。翌[[10月1日]]には最高会議で最高会議幹部会議長から引退。後任の最高会議幹部会議長にはゴルバチョフが就いた。1989年4月に中央委員会からも退いた後、グロムイコは回想録の執筆に取り掛かった。その3ヶ月後、80歳の誕生日を目前に控えた[[7月2日]]に血管の病気により死去。79歳没。人民代議員大会ではグロムイコの死を追悼し、1分間の黙祷が捧げられた。アメリカのブッシュ大統領はグロムイコの息子アナトリーに対して哀悼の意を表した。ソ連政府は、他のソ連指導者と同じように[[クレムリンの壁墓所]]にグロムイコの遺を埋葬することを提案したが、家族の意向によりノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬された。
 
== 著書 ==