「ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー」の版間の差分

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その後は軍事問題と[[哲学]]、[[魔術]]について数多くの著作を残す一方、[[オズワルド・モズレー]]の[[英国ファシスト連盟]]に参加、1935年には出馬もしているが落選した。1939年4月には[[アドルフ・ヒトラー]]の50歳の誕生日パレードに招かれている。1966年に死去した。彼の機甲戦の理論は電撃戦の理論としてのちに[[ドイツ]]で復活することとなる。
 
== 評価 ==
1931年、[[ミハイル・トゥハチェフスキー]]は、フラーについて次のように書いている<ref>{{Citation|author=Jacob W. Kipp|contribution=The Origins of Soviet Operational Art, 1917–1936|editor=Michael D. Krause|editor2=R. Cody Phillips|title=Historical Perspectives of the Operational Art|year=2005|publisher=United States Army Center of Military History|place=Washington, D.C.|page=237}}</ref>。
 
{{Quotation|イギリス軍とアメリカ軍との戦争がカナダ国境に沿って勃発した場合を想定してみよう。両軍はともによく機械化されており、その兵力を仮に、イギリス軍はフラーの教え子たちの指揮する18個師団、対するアメリカ軍は180個師団とする。前者は5000輌の戦車と3000機の航空機を装備し、後者は50000輌の戦車と30000機の航空機を装備している。少数のイギリス軍は単純に粉砕されるだろう。大規模戦争における、小規模だが機動的な機械化部隊。そんなものが世迷い言に過ぎないことはすでに明らかではないだろうか。真剣に受け取るのは軽薄な人々だけだ。}}
 
==著作==
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*フラー『西方世界の決定的戦闘及びその歴史に及ぼした影響 第1〜6巻』(訳)、[[海上自衛隊幹部学校]]。
*フラー『[[制限戦争指導論]]』中村好寿訳、原書房、1975年。
 
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==