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[[シャルル・ド・ブルボン (ヴァンドーム公)|ヴァンドーム公シャルル]]と[[フランソワーズ・ダランソン]]の末子として生まれた。兄はヴァンドーム公[[アントワーヌ (ヴァンドーム公)|アントワーヌ]]で、のちの[[フランス王国|フランス]]王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]は甥である。
 
フランス軍の将軍として、ルイは1552年の[[メス (都市)|メス]]包囲で戦った。この戦いで[[ギーズ公]][[フランソワ (ギーズ公)|フランソワ]]は[[神聖ローマ皇帝]]兼[[スペイン]]王[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]からメスを守りきった。1557年に再度[[サン=カンタン]]の戦いでも皇帝軍に勝利した。彼は[[プロテスタント]]に改宗後、1560年に[[アンボワーズの陰謀]]に巻き込まれた。これは、[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]](ギーズ公フランソワの姪、[[スコットランド]]女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]を妻としていた)を[[カトリック教会|カトリック派]]首領のギーズ公から引き離そうとするユグノーと[[ブルボン家]]の者たちが仕組んだものだったが、失敗に終わり、多くのユグノーが虐殺された。
 
ルイ1世は[[ユグノー戦争]]でユグノーの一員として戦い、1562年に[[ドルー]]で捕らえられた。[[オルレアン]]では、ギーズ公フランソワが暗殺された。1563年、王太后[[カトリーヌ・ド・メディシス]]からユグノーに一定の信仰の自由を与える条件を引き出し、カトリック派とアンボワーズの和議を交渉した。1567年に戦争が再発した後、彼は1569年の[[ジャルナックの戦い]]で戦死した。