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* 1961年8月10日 - 大韓民国陸軍[[中将]]。
* 1961年11月1日 - 大韓民国陸軍[[大将]]。
* 1961年11月 -訪米の途に東京で30時間ほど滞留(朴は執権期間に一度も公式訪日しなかった、最初にした韓国大統領は[[全斗煥]])<ref name="【グローバルアイ】崔順実事態の余波に注目する日本」">[http://japanese.joins.com/article/404/222404.html「 【グローバルアイ】崔順実事態の余波に注目する日本」],中央日報,2016年11月8日.</ref>。
* [[1962年]][[3月24日]] - 大統領権限代行<ref>[http://s01.megalodon.jp/2009-0324-2210-16/japanese.yonhapnews.co.kr/misc/2009/02/27/9000000000AJP20090227003400882.HTML 今日の歴史(3月24日)] 聯合ニュース 2009/03/24 閲覧</ref>。
* [[1963年]][[10月15日]] - 第5代[[大統領 (大韓民国)|大韓民国大統領]]に就任。
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=== 教員時代 ===
小学校卒業後、教師からの薦めを受けて[[慶北大学校|大邱師範学校]]を受験し、[[1932年]]に100人中51番の成績で合格した<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=p.23}}</ref>。皇民化を隅々まで強要した大邱師範学校での生活は朴正煕の気質に馴染まず、3年次には成績不振から官費支給生を脱落、4年次には成績最下位となった。一方で剣道、器械体操、サッカー、短距離走等スポーツには並々ならぬ関心を示した。朴がもう一つ強い関心を持ったのが[[軍事教練]]であった。師範学校の配属将校である[[有川圭一]]中佐<ref group="註釈">鹿児島県士族出身、陸士25期。のち第64旅団長として沖縄戦に参加し自決。陸軍中将</ref> は、朝鮮人のみならず日本人にも蔑んだ態度をとる、ある意味公平な人物であったようで、これが朴の興味を引いた。有川もまた朴を大変可愛がり、動作の模範を示す訓練助教に使うほどだった<ref>{{Harvnb|趙|1991|ref=趙/永守訳(1991)|loc=p.34}}</ref>。5年生で[[歩兵第80連隊]]に2週間入隊した際も模範演技に選ばれるほど関心を持ち、銃剣術は現役軍人をしのぐほどであったという<ref>{{Harvnb|趙|1991|ref=趙/永守訳(1991)|loc=p.30}}</ref>。師範学校卒業後の[[1937年]]4月に慶北[[聞慶市|聞慶]]公立普通学校に赴任、差別的な態度をとる日本人の校長や教員に不満を抱きつつも、[[日本軍]]の軍人に憧れを抱く熱心な教師として勤務した<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=pp.23-24}}</ref>。なお、師範学校4年次の夏休み中に金好南と結婚しているが、親の取り決めであったため全く情が移らず、結婚した事を同級生に話すこともせず、教師赴任後は終戦まで全く会いに行こうともしなかった<ref>{{Harvnb|趙|1991|ref=趙/永守訳(1991)|loc=p.37}}</ref><ref>{{Harvnb|池東|2002|ref=池(2002)|loc=ch.3, p.94}}</ref>。学芸会や運動会の団体競技で戦争を取り扱った出し物をしたり、休日には生徒たちを集めて戦争ごっこをしたり木刀で剣道を教えるなど軍国色の強い指導をしていた反面、日本人教師のいない時は生徒に朝鮮語の使用を勧めたり<ref>{{Harvnb|趙|1991|ref=趙/永守訳(1991)|loc=p.43}}</ref>、授業で李舜臣や亀甲船の話をしたこともあったという<ref>{{Cite web |url = http://www.chogabje.com/premium/book/view.asp?sCidx=100 |title =弟子たちの「記憶」 |publisher =趙甲濟ドットコム|language = 韓国語|accessdate = 2017-11-03 }}</ref>。また、生徒たちに軍隊ラッパを吹いて見せ、生徒たちがその音に合わせて歌うなどして親しまれていた。しかし、[[日中戦争]]下での「[[総力戦]]」の掛け声の下で推進されていた[[丸刈り|坊主頭]]を拒み[[長髪]]を続けたため、[[1939年]]秋に聞慶を訪れた[[視学制度|視学監]]に咎められ、酒宴の席で衝突、その後教師の職を辞した<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=p.24}}</ref>。ただし、当時の教え子によると、長髪だったのは貧しくてバリカンを持っていなかった朝鮮人生徒の側で、朴正煕は周囲の日本人教師から監督責任を問われ度々衝突していたという。また、視学監の出迎えに一人だけ行かずラッパを吹き、給仕の警告も無視したため日本人教師から袋叩きにされたということがあり<ref>{{Cite news | title = 長剣差したく満州へ「教師朴正煕」(''긴 칼 차고싶어 만주 간 '교사 박정희' '') | agency = オーマイニュース | date =2004-08-22 | url =http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000203696 | accessdate = 2017-11-03}}</ref>、長髪事件の話はこれらのエピソードが混同して出来た可能性がある。
 
=== 軍人時代===
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満州軍官学校入校の翌[[1941年]]に[[創氏改名]]で'''高木正雄'''の日本名を名乗り<ref name="joins20040825" /><ref>{{Harvnb|趙|1991|ref=趙/永守訳(1991)|loc=p.65}}</ref>、その後更に'''岡本実'''に名を改めている<ref name="chi,2002a:96">{{Harvnb|池東|2002|ref=池(2002)|loc=ch.3, p.96}}</ref>。朴正煕が合格した[[満州国軍]]軍官学校2期生には、朴正煕を含め12人の朝鮮人学生がおり、彼らは満系生徒として生徒中隊に配属された。朴は第3中隊第3区隊(中隊長:[[愛新覚羅溥傑]]少校、区隊長:張連芝中尉)の所属だった<ref name="ohmynews20040819">{{cite news |title= "목표 위해 죽음 불사할만큼 성실"우등 성적으로 4년만에 '황군' 소위|author= |newspaper= オーマイニュース|language = ko |date= 2004-8-19|url= http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000204062|accessdate=2015-11-21}}</ref>。[[1942年]]3月に非日本人の首席で卒業、[[満州国皇帝]][[愛新覚羅溥儀|溥儀]]から[[恩賜]]の[[金時計]]を授けられている<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=p.25}}</ref>。当時満州国軍中尉だった[[丁一権]]は朴正煕と親しく、新京で会う際にはしばしば、いずれ[[日本帝国主義]]が滅び、韓国が独立するとの旨を朴正煕から酒の席で聞いたと証言している<ref>{{Harvnb|趙|1991|ref=趙/永守訳(1991)|loc=p.63}}</ref>。
 
満州国軍軍官学校卒業後、日本の[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]に留学、第57期生編入を経て、[[1944年]]に卒業した<ref name="chi,2002a:96"/>。日本陸軍士官学校卒業後、[[チチハル]]の[[関東軍]]工兵下士官候補者隊を経て[[東寧市|東寧]]駐屯の[[第120師団 (日本軍)|第120師団]]工兵隊(通称号:満州第635部隊)<ref>{{Cite web |url =https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?NO=5&DB_ID=G0000101EXTERNAL&ID=%24_ID&LANG=default&image_num=4&IS_STYLE=default&TYPE=PDF&DL_TYPE=pdf&REFCODE=C12121109500&CN=1 |title = 部隊通称号索引簿(在満部隊) 昭和27年3月1日 |publisher = JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12121109600、部隊通称号索引簿(在満部隊) 昭和27年3月1日(防衛省防衛研究所) |accessdate = 2018-02-06 }}</ref> に[[見習士官]]として配属され、3か月間勤務した<ref name="ohmynews20040819" />。1944年7月に満州国軍[[少尉]]に任官、朴正煕は満州国軍第5軍管区隷下<ref>藤田昌雄『もう一つの陸軍兵器史: 知られざる鹵獲兵器と同盟軍の実態』光人社、2004年、p187</ref> の[[歩兵]]第8団(所在地:[[熱河省 (満州国)|熱河省]][[興隆県]]{{仮リンク|半壁山鎮|zh|半壁山镇}}、団長:唐際栄上校)の朝鮮人[[将校]]4人のうちの一人<ref group="註釈">他は[[申鉉俊]]上尉、[[李周一]]中尉、{{仮リンク|方圓哲|ko|방원철}}中尉がいた。</ref> となった。1944年7月下旬から8月初旬ごろまで行われた[[八路軍]]討伐作戦では第8団第2連排長として参加<ref name="ohmynews20040824">{{cite news |title= 중위 진급 한달 뒤 일제패망에 낙담 해방 이듬해 패잔병 몰골 귀국선 타|author= |newspaper= オーマイニュース|language = ko |date= 2004-8-24|url= http://www.ohmynews.com/NWS_Web/Mobile/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000204655 |accessdate=2016-05-30}}</ref>。しかし朴の部隊は八路軍と交戦しなかったという<ref name="ohmynews20040824"/>。[[1945年]]7月に[[中尉]]に昇進、[[ソ連対日参戦]]により[[1945年]][[8月9日]]に[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]が満州国に進攻した後、1945年[[8月15日]]の[[日本の降伏]]時は第八団の副官を務めていた<ref name="chi,2002a:96"/><ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=pp.20-21}}</ref>。副官には甲乙の2種類があったが、朴は乙種副官であり、主に隷下部隊への作戦命令通達や団旗の管理をしていた<ref name="ohmynews20040824"/>。
 
==== 韓国軍 ====
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日本降伏による朝鮮解放後、1945年2月の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]首脳による[[ヤルタ会談#極東密約(ヤルタ協定)|ヤルタ協定]]に基づいて北緯[[38度線]]を境に、朝鮮半島の南半部の[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合国軍政]]のために1945年[[9月8日]]に[[アメリカ軍]]が[[仁川広域市|仁川]]に上陸し、アメリカ軍は既に存在した[[朝鮮建国準備委員会]](建準)を解体した後に南朝鮮を[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁]]の直接統治に置いた<ref>{{Harvnb|田中|2011|loc=pp.4-7}}</ref>。[[大韓民国臨時政府]]はこの[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁]]と対立していたため、朴正煕は[[大韓民国臨時政府]]の「軍隊」としての帰還を許されず、[[1946年]][[5月8日]]に「個人資格」で[[釜山広域市|釜山]]に上陸した<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=p.37}}</ref>。
 
帰国後、[[1946年]]9月に、[[南朝鮮国防警備隊]]の幹部を育成するために[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁|アメリカ軍政庁]]が設置した教育機関、「朝鮮警備士官学校<ref group="註釈">[[韓国陸軍士官学校]]の前身である。</ref>」に2期生として入学した<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=p.38}}</ref>。翌月の[[1946年]][[10月1日]]に[[大邱広域市|大邱]]で[[共産党]]が指導した暴動事件、いわゆる「[[大邱10月事件|10・1暴動事件]]」が発生し、この事件で[[亀尾]]地域の有力な[[呂運亨]]支持者であった三兄の[[朴相煕]]が警察に殺害された<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=pp.38-39}}</ref>。その後朴正煕は1947年9月に[[大尉]]に任官された<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=p.39}}</ref>。一方で三兄[[朴相煕]]が殺害された後、呂運亨が結成に関わった[[南朝鮮労働党]]<ref group="註釈">[[共産党|共産主義政党]]。[[1949年]][[6月30日]]に[[北朝鮮労働党]]と合併して[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)の執政党たる[[朝鮮労働党]]となる。</ref> が朴相煕の遺族の世話をしていた繋がりから、朴正煕も南朝鮮労働党に入党していたが、[[1948年]][[8月15日]]の南朝鮮単独での[[大韓民国]]建国と翌[[9月9日]]の北朝鮮に於ける朝鮮民主主義人民共和国建国後、同1948年[[10月19日]]に南朝鮮労働党に呼応した[[大韓民国国軍]]の党員将校が[[麗水・順天事件]]を引き起こすと、軍内[[細胞 (政党)|党細胞]]であったことが[[粛軍]]運動により発覚し[[11月11日]]に逮捕、[[ソウル特別市|ソウル]]の[[西大門刑務所]]に送られた<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=pp.55-57}}</ref>。この際、転向して南朝鮮労働党の内部情報を提供したことと、朴正煕の軍人としての能力の高さを評価した[[白善燁]]、[[元容徳]]、[[金一煥 (軍人)|金一煥]]ら軍内の要人の助命嘆願により武官免職と共に[[1949年]]4月に死刑を免れた<ref>{{Harvnb|池東|2002|ref=池(2002)|loc=ch.3, p.97}}</ref><ref name="p57-58">{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=pp.57-58}}</ref>。
 
免職後は「陸軍情報課北韓班状況室長」として北朝鮮の情報分析に勤しんだが、[[1950年]][[6月25日]]の[[朝鮮戦争]]勃発後、少佐として軍役に復帰し、同年中に[[陸英修]]と再婚している<ref>{{Harvnb|池東|2002|ref=池(2002)|loc=ch.3, pp.97-98}}</ref>。朝鮮戦争中の[[7月14日]]に現役軍人に復帰した後、1950年[[9月15日]]に[[中佐]]に昇進、[[1951年]]に作戦教育局次長へと昇進し<ref>{{Harvnb|池東|2002|ref=池(2002)|loc=ch.3, p.98}}</ref>、[[1953年]][[7月27日]]の[[朝鮮戦争休戦協定]]調印までに[[大佐]]に昇進した<ref name="p57-58"/>。朴正煕はこの朝鮮戦争時にアメリカ軍の軍人も認めるほどの筋金入りの[[反共主義|反共産主義者]]となっている<ref>{{Harvnb|林|1991|loc=p.58}}</ref>。
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[[1962年]][[12月17日]]に「[[大韓民国憲法#第五次憲法改正(全面改憲。第三共和国憲法)|第三共和国憲法]]」が国民投票によって承認され、大統領任期を2期までに定めた[[第三共和国 (大韓民国)|第三共和国]]が成立した<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=p.131}}</ref>。[[1963年]]に[[軍事政権]]である[[国家再建最高会議]]が、民政に復帰した。朴正煕は8月に軍を退役して[[民主共和党 (韓国)|民主共和党]]から[[1963年大韓民国大統領選挙]]に立候補し、[[民政党 (韓国)|民政党]]の[[尹ボ善|尹{{lang|ko|潽}}善]]前大統領を約15万票差で破って自ら第5代大韓民国大統領の座に就いた。
 
第5代大統領就任後、[[1964年]][[1月10日]]の「年頭教書演説」にて[[自由主義]]陣営の結束を求めるアメリカ合衆国の意向を念頭に、朴正煕は[[日韓関係]]の改善を訴えた<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=pp.113-114}}</ref>。これに対し、1964年4月に[[高麗大学]]の[[李明博]]<ref group="註釈">[[李明博]]は[[2008年]][[2月25日]]に第17代大韓民国大統領に就任した。</ref> 学生会長が[[日韓国交正常化反対デモ]]を指導したため、朴正煕政権は1964年[[6月3日]]に[[学生運動]]に対して[[戒厳令]]を発し、李明博を含む学生運動指導者らを逮捕した<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=pp.107-111}}</ref>。
 
このような国内の反対を抑えつつ、[[1965年]][[6月22日]]には、日本の[[佐藤栄作]][[内閣総理大臣]]との間で「[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]」を調印し、[[8月14日]]に[[与党]][[民主共和党 (韓国)|民主共和党]]単独参加の国会でこの日韓基本条約を批准した<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=p.127}}</ref>。日韓基本条約は[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]]を清算するものでなく、わずかばかりの金で国を売るものであるとして、韓国国内では広範な反対運動が発生した。民主化活動家の大学生や市民、「平和線」([[李承晩ライン]])の堅持を求める野党[[民政党 (韓国)|民政党]]の[[金泳三]]<ref group="註釈">[[金泳三]]は[[1993年]][[2月25日]]に第14代大韓民国大統領に就任した。</ref> 議員たちは「[[汎国民闘争委員会]]」を結成し、大韓民国国内で「屈辱外交」への激しい抵抗が繰り広げられる中、日本との条約締結が強行され、日韓[[国交]]正常化は実現した<ref>{{Harvnb|池東|2002|ref=池(2002)|loc=ch.3, p.106}}</ref><ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=pp.120-122}}</ref>。また日本国内でも、条約に基づく巨額の資金提供は独裁政権を利するとして反対運動が起こり、大学生を中心に大々的な反対運動が展開されていた。同年12 月18日には[[在日朝鮮人]]の存在を本国政府(帰国の受け入れを拒否した[[李承晩]]政権<ref>『誤解だらけの韓国史の真実』
八幡和郎 2015年</ref>)の責任とし、戦後に日本へ不法入国した場合や[[在日本朝鮮人総聯合会|朝鮮総連]]などの日本で共産主義活動に加担した場合も赦すとして韓国への帰国を促す談話を発表した<ref>http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19651218.S1J.html</ref>。
 
その後、[[1963年]][[11月22日]]の[[ダラス]]での[[ケネディ大統領暗殺事件]]後、[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]から大統領に昇格した[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[リンドン・ジョンソン]]政権の要請に応じて[[1964年]]に[[大韓民国国軍]]の[[ベトナム戦争]]への派兵を決定した<ref>{{Harvnb|池東|2002|ref=池(2002)|loc=ch.3, p.108}}</ref>。
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== 死後の評価 ==
[[2017年]]5月20~22日に世論調査専門機関リサーチビューが行った歴代大統領の好感度調査(歴代大統領から最も好感を持つ人を1人だけ選ぶ調査)で25.2%を記録し2位であった(1位は54.2%を記録した[[盧武鉉]])。世代別では60代と70代以上で1位となった。60代は42.5%、70代以上は55.0%が朴正煕を選んだ。しかし、20代で朴正煕を選んだのはわずか2.7%、30代は4.1%、40代は11.4%、50代は26.5%で、1位の盧武鉉に圧倒的な差をつけられた。20代と30代では盧武鉉、[[金大中]]の後塵を拝して3位となり、40代でも3位の金大中と1%しか差がなかった。全国の全ての地域([[ソウル特別市|ソウル]]、[[仁川広域市|仁川]]・[[京畿道]]、忠清([[大田広域市|大田市]]・[[世宗市]]・[[忠清北道]]・[[忠清南道]])、湖南([[光州市]]・[[全羅北道]]・[[全羅南道]])、[[大邱広域市|大邱]]・[[慶尚北道]]、[[釜山広域市|釜山]]・[[蔚山広域市|蔚山]]・[[慶尚南道]]、[[江原道_ (南)|江原道]]・[[済州道]]の7つの区分)で盧武鉉の後塵を拝し、1位となった地域は1つもなかった。湖南と忠清では盧武鉉、金大中の後塵を拝して3位となり、ソウルでも3位の金大中と2%しか差がなかった<ref>{{Cite web |date= 2017-5-22|url= http://rsview.kr/pdboard/bbs/board.php?bo_table=data&wr_id=665|title= 170522 전직대통령 호감도 "노무현(54%) 첫 과반돌파-최고치 경신", 정당지지도 "민주당(49.6%) vs 자유한국당(12.2%)"_리서치뷰(170522元大統領の好感度・盧武鉉(54%)の最初の過半数を突破 - 最高更新、政党支持率・民主党(49.6%vs自由韓国党(12.2%)リサーチビュー)
|publisher= リサーチビュー|accessdate=2017-5-27}}</ref>。
 
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ただ、朴正熙批判者たちの間では、経済的成果が、支持者たちによって誇張された面が多いという指摘も出ている。引用される数値もまちまちと在任中に経済成長率よりも物価上昇率が高い物価高の時代でしたなど、任期期間と莫大な海外援助金を考慮すれば過大評価されたという批判もある。 さらには海外から受け取った援助金をスイスの銀行などに個人資産として着服した疑惑もマスコミを通じて地道に出ている。
 
1997年、韓国のIMF経済危機以降、2000年代、朴正熙再評価が行われて人気を得たが、2010年代、盧武鉉元大統領に人気を追い越された [http://www.polinews.co.kr/news/article.html?no=298918][http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=100&oid=002&aid=0002030390]。
 
朴正熙の経済政策は"圧縮成長"と呼ばれる。 これは早いスピードで経済成長の基盤をなす意味のほかにも、労働弾圧など様々な問題には、目をつぶって"効率最優先"路線を走ったという批判的意味も含む。
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=== 日本に関する逸話 ===
1961年11月に訪米の途に東京で30時間ほど滞留しただけで朴は執権期間に一度も公式な訪日をしなかった<ref>[http://japanese.joins.com/article/404/222404.html「 name="【グローバルアイ】崔順実事態の余波に注目する日本」],中央日報,2016年11月8日.<"/ref>。
 
==== 用日 ====
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=== 李王家との関係 ===
歴史観では李氏朝鮮に批判的だった朴正煕だが、韓国初代大統領の李承晩が妨げていた[[大韓帝国]]最後の皇太子である[[李垠]]・[[李方子]]夫妻の韓国への帰化を認めて生活を支援<ref>1984年7月3日 読売新聞「[人]李方子=5 市井の“妃” 一生いばらの道」</ref> し、李氏朝鮮と大韓帝国の皇室の祖先を祀る[[宗廟 (ソウル特別市)|永寧殿]]に李垠の位牌を「懿愍太子」の諡号でおさめる<ref>新城道彦 『朝鮮王公族―帝国日本の準皇族』 中央公論新社、2015年 ISBN 978-4121023094</ref> など[[李王家]]の諸個人には好意的だった。
 
=== 愛妻家説 ===