「ルイーザ・ボルジア」の版間の差分

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== 生涯 ==
教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の庶子チェーザレ・ボルジアと、その妻で[[ナバラ王国|ナバラ王]][[フアン3世 (ナバラ王)|ジャン(フアン3世)]]の妹である[[シャルロット・ダルブレ]]の間の一人娘として生まれた<ref>Charles Cawley, ''Medieval Lands, Albret''</ref>。フランスで生まれ育ち、1507年に父と死別した。1517年4月7日、40歳年上のタルモン公[[ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ]]の後妻となるが、夫は1525年に[[パヴィアの戦い]]で戦死した。1530年2月3日にビュッセ男爵フィリップ・ド・ブルボン(1499年 - 1557年)と再婚し、間に4男2女の計6人の子女をもうけた。マドリード公[[カルロス・ハビエル・デ・ボルボン=パルマ|カルロス・ハビエル]]、アランフエス公[[シクスト・エンリケ・デ・ボルボン=パルマ|シクスト・エンリケ]]はルイーズの子孫である。
 
== ボルジア家家系図 ==
{{ボルジア家系図}}
 
== 脚注 ==